パーソナリティ
内田 樹 Uchida Tatsuru
平川克美 Hirakawa Katsumi
<その1はこちらから>
新聞記者はデモクラシー!?
平川:トクヴィルの『アメリカのデモクラシー』の3巻の最初の方だったと思うけれど、アメリカ人は一般的概念といったものに執着が強いと書いてあるんだよね。人間は個別的な思考形態だけではやっていけなくて、どんな人間も必ず一般的な概念に寄り添っているが、特にアメリカ人はその傾向が強い。そのことと、民主主義はすごく関係している。そういう意味で言えば、新聞記者はデモクラシーなんだよ。
内田:デモクラシーの「デモ」なんだよ(笑)。みんなの言うことが真理なんだよ。
平川:でも実は、今はもうデモクラシーがうまく機能しない時代に入っていて、僕らは「次の何か」を発見しなければいけないんだけど、発見できていないんだと思うんだよね。デモクラシーの前はなんだったかというと、独裁者の時代、あるいは貴族政治の時代だった。そこからデモクラシーは発展したのだけれども、無責任の体系みたいになってしまって、軽いわけだよね。
内田:デモクラシーの一般意思(※4)というのがあるじゃない。一般意思が重い時代もあったんだよ。個人の中に一般意思が血肉化されている時代があった。フランス革命の時の義勇軍なんかそうでしょう。フランス革命の大義を個人が身体的に受肉してしまっているから、たった一人になっても「フランス革命万歳」と言って敵陣に突っ込める。フランス革命のときの市民義勇軍は当時最強だったそうだけど、それは「オレがフランス革命そのものなんだ」という実感があったからだと思うよ。
※4 ジャン・ジャック・ルソーの『社会契約論』の中の概念。国家は各個人が共同体全体に対して全面的に譲渡するという全員一致の契約によって設立される。この契約によって、国家は一個の意思を持った単一の人格として成立し、この意思が一般意思であるとされる。これを表現したものが法である。
平川:そこには王権の影というか、緊張感があったわけだよね。
内田:自分が自分であるためには革命を遂行しないわけにはゆかない、そういう「個人が一般意思を受肉していた」という時代が18世紀にあって、それがデモクラシーを起動させた。でも、その賞味期限がそろそろ尽きてきたみたいだね。今のデモクラシーは、一般意思を個別の意思として担保する個人を要求しないから。
平川:しないね。誰もしていないかもしれない。新聞が「第四の権力」といわれたころからかな。一般意思が、まさに権力になってしまったんだよ。最初に民主主義が発見された時は、権力の無化のために働くと考えられたわけでしょう。権力の無化とはものすごくアナーキーな話ですからね。
内田:全部の市民が一人ずつある種の権力者だった。
平川:でも当時持っていた緊張感がなくなった瞬間、逆にそれが権力になっていく。