壁新聞からiPadへ
小寺 その感覚はわかる気がする。僕は二十歳から18年ぐらい、映像の編集の仕事してきたんだけど、それってバラバラの話を持ってきて、ひとつのストーリーをつくるって作業なんですよ。映像作品に途中分岐とか、「ここで前に戻って」とかないから、一軸方向の時間軸しかない中で、いかに段取り良く話を紡いでいくか、という。
そこで覚えた話の順序の組み立てとかって、今僕が文章を書く中で自然に生きてるんですよね。僕のメルマガ読んで、構成が上手いって言われ方することあるんだけど、これ、あとで構成変えとか全然してないからね(笑)。 最初からこういう順序で書いてる。説明のダンドリというものを身体感覚として覚えてると、そんなに無理して意識しなくてもよくなるのかもしれないですね。
西田 ああ、なるほど。
小寺 いや、ちょっとそれに関連して僕も思うところがあって。小学校とか中学校ぐらいまではさ、壁新聞とか作るじゃない。あれ何のためにやってんのかな、って思うわけです。
だって壁新聞に書いてあるのは学校の行事で、それを見るのは学校の生徒しかいないんだから、書いてあることはみんな知ってるんだもん。その知ってるのをわざわざ見せる、って意味がどこにあるのかっていうと、あれは多分、マスメディアの勉強をしてるんだと思うんですよ。人に伝えるためのトレーニングね。
西田 そうね。
小寺 その昔、マスメディアとは新聞だったので、マスメディアとはこういう風に作ります、というワークフローを子どもにやらせてた結果が、今も壁新聞という形になって残り続けてるということなんじゃないかと。でも今のマスメディアの在り方って、ネットを含め──現在の主流はテレビに象徴されるように、時間軸で流れてて。
人のしゃべりでわからせるってことは、時間軸で説明してくってことじゃないですか。本当はこれまで、マスメディアの勉強をさせるんだったら、ナレ原(ナレーション原稿)書かせてビデオ編集をやらせてなきゃいけなかった。で、これからだと、一人でしゃべりと資料を回してくプレゼンテーションを教えなきゃいけない、という風にならなきゃいけないわけですよ。もう壁新聞じゃなくて。
西田 うん、そうですね。
小寺 でも未だにさ、そこが変わってきてない、教えられる人もいないっていう現状がどうしてもあって。
西田 そうですね。人に見せるって意味合いでは、やっぱり──この間、沖縄に行ったんですよ。沖縄県って、特殊学級に予算つけて、大量にiPadを導入してんですよ。ま、それはAppleからプロモーションがあったから、というのもあるんだけど。
その中で、実はね。デモを見て、わりと真面目に「泣いた」んですよ。サイトウケンタ君、って子なんですけど、いわゆる四肢麻痺で、車いすがないと動けない子なんですね。すごく頭のいい子なんですよ。
で、iPadを渡されて、先生に「じゃあ、一緒にタイプ覚えよう」って言われて、口に導電ゴムがついた棒を持って、iPadを叩くとか、物理キーボードを叩くことによってタイプを覚えたんですね。で、自分でBluetoothのキーボードを設定して繋いで、インターネットを繋いで、検索して、情報をみて「明日は晴れですね」って僕らに教えてくれる、っていうレベル。
そこまではね、「そういう勉強をしてるんだ、偉いね」って感じなんですけど。なんで彼がそれをやろうと思い、やって、続けてるか、というのが。それまでは、彼はペンを持てないわけですよ。ペンが持てなかったので、自分を表現する方法が非常に限られてたわけですね。たしかにすごく喋れる子なんだけど、ちょっとシャイで、僕らともコミュニケーションはあんまりたくさんは取らなかった。
でも、そうやってタイプできるようになったことで、書けるように変わって。定期的に書けるようになったから、じゃあみんなのためにこれから給食のメニューを毎日書いて貼り出そう、って。で、毎日給食のメニューを彼はタイプして貼ってるんですよ。そうするとそれを見た先生とか生徒が、「すごいね、君こんなことできるようになったんだ」ってなって。
要は、彼に評価が生まれるんですよ。評価が生まれると、タイプをするのがもっと面白くなって、タイプスピードを上げる。タイプスピードを上げて、きちんと打てるようになるとさらに評価される。さらに評価されると自分を表現したくなる、ということで。
彼がこれまで「四肢が麻痺してる」というだけで持ってたコンプレックスが綺麗に消えていったんです。その時に何が重要だったかって、やっぱり「人に見せる」ってことだったんですよね。それはiPadで見せる、というのもあったし、プリントして見せることもあった。
僕らは、たとえば子どもが機械を使うとか、子どもが何かを見せるっていう時に、実は彼ら自身がやったことを他の子どもたちから評価してもらう、っていう軸を持ってなかったんじゃないか、って思ったんですよね。よく考えてみれば、友達に「お前作ったのすげえな!」って言われるのって子どもにとって相当嬉しいことなんですよね。で、それをきちんと教育の中のカリキュラムに組み込むって、昔のほうがよくできてたんだろうな、と。
図工で「紙のものを自由に作って持ってきなさい」っていう授業って、今はなかなか成立しづらくなってますよね。親も家でなかなか子どもに付き合っていられなくなってるし。怪我するから、っていうのもある。
それならむしろ、ITのものを入れることによって、子どもが子どもを評価する、という機会をもっと作れるんじゃないか。そんなことが実は電子教科書議論よりはるかに大切なんじゃないか、というイメージを持つようになったんですよね。
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