「共感」の前には「驚き」がある
社会がシステム化される中で「共感」から力が失われてしまうというのは、端的に言えばこういうことです。
「共感しましょう」「相手の立場になって考えましょう」
というときの「ルール」「ノウハウ」「正解/間違い」が、誰も気づかないうちに整備されていく。そして僕らはいつの間にか、そういった枠組みの範囲内でしか、「共感」できない生き物になっていく。
そうやってシステム化されればされるほど、「共感」はその本来の機能を失ってしまう。というのも「相手の立場になって考える」というルールに従うかぎり、僕らはどうしたって本当の意味で「相手の立場になって考える」ことができないからです。
システム化される以前の「共感」本来の力を取り戻すにはどうしたらいいか。それは僕にとって長年の問題意識でした。「共感」がなければ、暗く、淀んだ心を持つ人がもう一度前を向いたり、あるいは伸び悩んでいる人が次の世界に飛び立ったりするきっかけを得ることは非常に難しくなってしまう。それが僕の臨床的な実感でした。
しかし、「驚く力」は、その問題を解くひとつのカギとなると感じています。というのも、本来の意味での「共感」の前には、必ず心がハッと動き出すような「驚き」があるからです。
例えば「子供はほめて育てなければいけない」というのは、まったく正しい。ところが「ほめて育てなければならない」ということが「ルール」になった瞬間、「ほめること」が持つ本来の力が失われてしまう。
それは、「ほめること」がシステム化、ルール化された瞬間に「驚き」が失われるからです。子供が、自分たち大人が思ってもいないような成長を見せた。それに対する「うわ! すごい」という新鮮な驚きがあってはじめて、本当の「ほめ」が生じる。
そう考えると、「驚き」というものが人間の感覚世界に占めてきた役割の大きさがわかります。。「あなたの辛い気持ち、本当にわかるよ」という「共感」も、「すごい! よくできたね~」という「ほめ」も、いわば「驚きの名残」に過ぎないのです。
「ほめる」「共感する」といった感覚がシステム化され、ノウハウ化される中で失われていたのは実は「驚き」ではないか。これが、僕が本書をまとめる中で得た、大きな発見のひとつです。
その他の記事
|
コロナワクチン関連報道に見る、日本のテレビマスコミの罪深さ(やまもといちろう) |
|
5年前とは違う国になったと実感する日々(高城剛) |
|
鉄鋼相場の変調とアジア経済の調整(やまもといちろう) |
|
権力者とは何か(茂木健一郎) |
|
国内IMAX上映に隠された映画会社や配給会社の不都合な真実(高城剛) |
|
日本でも「ダウンロード越え」が見えたストリーミング・ミュージックだが……?(西田宗千佳) |
|
ネットメディア激変の構図とサブスクリプション問題(やまもといちろう) |
|
川の向こう側とこちら側(名越康文) |
|
イタリア人にとっての「13日の金曜日」(高城剛) |
|
『一人っ子政策廃止』は朗報か?(ふるまいよしこ) |
|
「貸し借り」がうまい人は心が折れない(岩崎夏海) |
|
祝復活! 『ハイスコアガール』訴訟和解の一報を受けて(編集のトリーさん) |
|
回転寿司が暗示する日本版「インダストリー4.0」の行方(高城剛) |
|
なんでもアリのハイレゾスピーカー「RS-301」を試す(小寺信良) |
|
『寄生獣・完結編』の思わぬ副産物/『幕が上がる』は和製インターステラーだ!ほか(切通理作) |












