人間は結局一人なのだ
クレーの絵は、今も人々を惹きつけている。最初は味のある線画を描く人だったが、後に色彩を空間の中に巧みに配置する「詩人」となった。チュニジアへの旅は、そんなクレーの画家人生の転換点である。
クレーが多くの人々に影響を与えるのは、その芸術の卓越を通してである。感化と共感。強制されているわけではない。そんな芸術家の人生は誰にでも選ぶことができるわけではないが、それでも信じることができると思う。
権力者はどうだろう。この世界に一人で立っていたら、権力を持つことなどできない。権力者とは、つまりは、他人に依存している存在なのだ。恐怖を通して、国民の生活の隅々までに自分の肖像画を入り込ませる。命令一つで、人々を動かす。そこにあるのは法律や恐怖を通した強制である。さびしいな。自分一人では何にもできないのだ。
クレーの滞在した別荘から市内に戻る途中、突然、バイクの警官が道路を封鎖した。バスの運転手が、すっかり慣れているように事も無げに停車させる。目の前の通りから車が消えた。しばらくすると、パトカーが猛スピードで通り過ぎて、その後を黒い車列が続いた。
「大統領が、移動しています」
ガイドの方がそう言った。私が子どもの頃野山で蝶を追いかけていた時、蝶たちはコンクリートなどの居心地の良い場所では素速く飛んで、緑の中など、快適な環境ではゆったりと飛んでいた。
はて、チュニジアの街中は、大統領にとって居心地の悪い場所だったのかしら。私は、さっきまで見ていた海辺の別荘を包む気持ち良い風を思い出そうとしていた。
チュニジアから日本に帰り、年が明けると世の中が動き始めた。ツイッターやフェイスブックが道具となって、チュニジアで「ジャスミン革命」が起こり、ベン・アリ大統領は国外に脱出した。私は、パウル・クレーの「黄色い鳥」にインスパイアされた絵に取り組んだが、うまく描けなかった。
画家って大変だな。キャンバスの上の自分の手の動きが全て。誰にも頼めない。命令できない。逃げ出しようがない。そんな人生を、私は送っていきたいな。
チュニジアの国内から、大統領の肖像画はすっかり消えてしまったのだろうか。国を追われ、ただの人になったベン・アリさんに、会ってみたい。一人で海を見ている彼の表情は、もっとずっと落ち着いていることだろう。その内側から響く音楽に、耳を傾けてみたいと思う。人間は、結局は一人なのだ。
<茂木健一郎のメルマガ『樹下の微睡み』Vol.6「続・生きて死ぬ私」より>
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