最近、飛行機で成田に帰ってきた時のこと。
ドアが開き、飛行機を降りて、連絡ブリッジに進み出たら、前を歩いているおじさんにさっと航空会社の人が歩み寄った。「お荷物をお持ちしましょうか」などと言って、あれこれと世話を焼こうとしている。
きっと偉い方なのだろうな、と思った。私たち一般乗客とは異なる扱いを受ける、しかるべき理由があるのだろう。そのあれこれを見ていて、そうだ、最近、権力者というものについて考えていたのだと、夕刻の街、散歩の合間に心をよぎったことについて思い出した。
結論から言えば、権力者になどなりたくない。権力者になどならなくていい。むしろ、一人の元気な子どもでいたい。あるいは、笑顔のかわいい老婆になりたい。取るに足らない存在でいいよ。これは、私のありったけの本気である。
むしろ「小心者」のそれだった
あれは、昨年の12月のことだった。パウル・クレーの取材で、北アフリカのチュニジアを訪れた。夜遅く、ホテルに着いてチェックインした。コーディネーターの方にパスポートを渡して、ロビーでぼんやりしていると、壁に肖像画写真がかかっているのに気付いた。立派な服を着て、勲章をたくさんつけている。アングルや照明にも細心の注意を払った写真。これは誰だろう? はて、チュニジアの王さまかしら、などと考えているうちに、まてよ、確か共和国だったはずだと思い直した。
「これは誰ですか」とホテルの人に英語で聞くと、「プレジデント」がナントカカントカと言っている。それで、その人はチュニジアの大統領なのだと気付かされた。
2010年12月当時、ベン・アリ氏は23年間の長きにわたって大統領職にあった。「独裁」との批判を受けながらも、改革の成果も上げていた。それでも、あまりにも長い政権の歪みはあったようである。情報統制も行われていた。部屋に入って、ベン・アリ氏についての英語のウィキペディアを参照しようとしたら、接続することができなかった。
ロビーにベン・アリ氏の肖像写真が掲げられていたのは、ホテルのオーナーが取りたてて大統領ファンだったからというわけではなかった。翌日、街に出てわかったのは、大統領の写真は至る所に掲示されているということ。通りに面して巨大な看板があり、盛装した大統領が笑っている。大統領の写真の横には、政治的スローガンらしいものがアラビア語で記されている。商店街を歩くと、どんなに小さな店にも、ベン・アリ氏の肖像写真が掲げられている。まるで、至るところに「自分」というスタンプを押さずにはいられないとでもいうように。それを見ていて、正直、権力者というのは大変なのだなと思った。
弾圧される側からすれば、鬼のような顔にさえ見えたかもしれない。しかし、私がベン・アリ氏の肖像写真から受けた印象は、むしろ「小心者」のそれであった。どこかに幼い面影を残した、はにかむような顔。強権を振るう段になれば、それは一変するのかもしれない。自分の肖像が国土の至るところにあることをよしとし、あるいはそれを命令すらしている男の心根。独裁者というものは、孤独である。そこまでしなければ気が済まないのだ。
政治状況とは関係なしに、チュニジアの風景は美しかった。パウル・クレーが滞在したという海辺の別荘の周囲の風情。「私は色彩に目覚めた」。チュニジア滞在中の日記に、クレーはそう記す。「色と私は一体となった。私は画家なのだ。」クレーはこの海や空を見上げて、自分と色彩の関係を探ったのだな。そんなクレーの心根を想ってみると、そこには信頼するに足る何かがあるように感じた。