呼ぶ側に自由はあるが……
この「先生」と呼ばれたくないという申し出があった事で、私もある事を思い出した。それは今からもう20年以上も前の事であるが、ある女性運動家のリーダー的存在の大学教授と公開トークをした時、やはりその人物も自分を「先生とは呼んでもらいたくない」と、最初に申し入れがあった。そこで私は「伺いますが、小学校時代の恩師も含め、先生と呼びたいと思われた事はないのですか?」と質問したところ、小学校時代の恩師に関しては回答を曖昧にされたが、「自分が“先生”と呼びたいと思う人ほど、その人は“先生”と呼ばれたがらない」という答えが返って来て、これはこれでなるほどと思った。
ただ、その時は、その対談相手を私もあまり先生と呼びたい人物でもなかったので、儀礼的な「先生」の呼び方は止めにして、その対談は「さん」付けで行なった記憶がある。しかし、今回3月7日に対談をさせて頂く事となった城雄二先生は、私が心から「先生」と呼びたいと思う数少ない方の一人であり、この方を「城さん」と呼ぶことは私自身きわめて難しい。(逆に向こうからは「甲野さん」と呼んで頂いた方が遙かに落ち着く)そこで、今回「松聲館日乗」に、この「先生」と「さん」の呼び方について書いてみて、私自身自分の心の内を検討したいと思ったのである。
まず、私が「先生」と呼びたいと思う方に、先方から「自分を“先生”と呼ばないでほしい」と言われた事に対する私なりの意見(反論というわけではなく、いわば「お願い」としての意見)は、まずどう呼ぶかについては、基本的に呼ぶ側に自由があるという事である。もちろん、城先生もその事は了解されているから、「先生は、やめていただくと、うれしいです」と御自分の希望を述べられているから、こちらが「どうしても先生と呼びたい」と譲らなければ、「どうしてもそう呼びたいと仰るなら、そう呼んでいただいても仕方がありませんね」という事になるかな? と思う。しかし、相手がそう呼んでほしくないという呼び方をこちらが敢えてするということは、やはり私としても躊躇がある。この困惑を別の例えでいうと、ある人が作ったものが素晴らしくて、それに対し、その人から申し出のあった以上の金額を払おうとすることを拒絶された状況にやや似ていると思う。
現に私は木彫彩漆職人の故渡部誠一翁から何点かその木彫りの作品を購入した事があったが、とても余人が真似のできない見事な彫りに対して、渡部翁がつけられた価格があまりにも安いので、それ以上のものを渡そうとすると、「えっ、これは何でしょうか?」と、まるでワイロを渡された実直な公務員がそれを拒絶するような態度で一切受け取られず、仕方がないので、何とか「次にお願いしたいものの前払いとして受け取っておいて下さい」などと言って、無理やり受け取って頂いた記憶がある。(この渡部翁の作品は、私のサイトのリンクから、まだその作品の写真を見ることが出来るが見事なものである)
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