参考引用『大地の母』11巻 第5回の続き
秋山の霊的体験は、この一度で終わらなかった。身を乗り出し、海軍流のくだけた口調ながら、眼を輝かして秋山は語る。
「日本海海戦の時のことです。御承知のように、ロシアは強力なバルチック艦隊を第二艦隊として日本に送り、制海権を奪おうとやってきました。迎え撃つ日本艦隊は、根拠地を鎮海湾において敵の接近を今や遅しと待っていたわけですが、この時の用意と覚悟たるや、実に想像の外です。日露戦争中、何が大事と言ってもこの一戦に勝るものはなかった。まさに『皇国の興廃この一戦にあり』でした。万々一日本艦隊が敗れたとすれば、それは日本の滅亡を意味します。もしこれを逸してウラジオに入港させては、日本の最大の危機となる。よしかなりの勝利を占めても、その一部をウラジオに逃がしたのでは、やはり勝手が悪い。どうでも完璧にやっつけねば、日本の安全は保ち難かった。しかし、ここでも、敵の進路の想定がウラジオ艦隊の場合と同様に重大問題で、しかも軽重の差から言えば比較にならぬぐらいでした。もちろん全力を上げて情報の蒐集をしていますが、神ならぬ身の絶対の確報は得られない。五月二十日を過ぎると、心身の緊張は極点に達していました。旗艦“三笠”には幾度となく全艦隊の首脳部が集まり、密議を凝らした。ぼくの口から言うのも何ですが、官職こそ一中佐であれ、連合艦隊の作戦は、ほとんどぼくの頭脳にかかっている―その責任の重さに押しつぶされそうになりながら、着のみ着のまま、昼も夜も寝食を忘れて考え続けました」
「……」
「忘れもせぬ五月二十四日の明け方でした。ぼくは彼方でよろめきながら士官室に行き、安楽椅子にぶっ倒れました。他の連中はとうに寝てしまって、士官室にいるのはぼくだけです。体はどんなにまいっても、頭脳だけは別のように考え続けていて安まらない。それでも、とろりと眠ったのだろうか、例の瞼の裏が明るく深く、果てしなく広がり出した。瞼の色が変わって海の青いうねり、波の白がくっきり見える。――対馬だ。対馬海峡の全景が見える。ぼくは無意識に心眼を凝らして海上を探った。いや、探るまでもなかった。バルチック艦隊は二列になってのこのこ対馬沖をやってきます。その陣容、艦数までとっさにつかんで、しめた、と思ったとたん、はっと正気に返った。頭は冴えに冴えています。今度は二度目なので、すぐに神の啓示だと感じました。敵の出方がわかれば、作戦はひらめいてきます。バルチック艦隊は確かに二列を作って対馬水道を北上する。それに対抗する方策は、第一段は夜戦で駆逐艦・水雷艇による襲撃をかける。第二段はその翌朝の艦隊全力上げての決戦、第三段・第五段はひき続いて夜戦、第四段・第六段は艦隊の大部分をもってする追撃戦、第七段はウラジオ港口に敷設した機雷原に敵艦隊を追い込む。昼夜の海戦を続けようという、ぼくの七段構えの戦法が出来上がりました。二十七日の夜明けになって、信濃丸からの無線電信で敵の接近を知り、ついにあの歴史的な海戦になるのですが、その時は肚の底から勝利の確信がありました。なぜって、目前に現われた敵の艦形が、三日前に霊夢で見せられたのと寸分の相違も無かったんですからね。ただ予想に反して敵艦隊の海峡通過が昼になったので昼夜が入れ替わり、第一段の艦隊決戦ですでに大勢を決したので、実際には第三段で作戦は終わりましたが……。いざ戦報を書こうとして筆を執った時、『天佑と神助によりて……』と、まず書き出していたのです。事実、そうなのですから。決しておまけでも形容でもなかったのですよ」
王仁三郎は、感慨深げに言った。
「不思議な符号ですなあ。ここの教祖は、明治三十八年の五月十五日から十日間。舞鶴沖の孤島沓島で日本の戦勝を祈願しなはった。二十三日の夜には龍宮の乙姫さんが現われて、『日本を攻める外国の船がたくさん参ったから、これからお手伝いに参る』と言いなはったそうや。あなたの霊夢は、その明け方、教祖はこの日、『もう日本は大丈夫、私のご用も終わったから、明日は船を呼んで帰ってもよい』と、ついて行った若い者に言っています。日本海海戦の勝敗は、この時点で決まっていたかも知れまへんなあ」
「そうですか。そんなことが……ぼくも二度の体験以来、人間に働きかけてこられる神霊の実在を、疑うことができんのです。人間がいくら知嚢をしぼっても決しかねる時、人間が匙を投げて神の前にひれ伏せば、神は必ず誠心の人を助け給う、これがぼくの信仰です。智慧ばかりでは駄目だ。人間が万全の働きをするには、どうしても至誠通神の境地に達せねばならぬと思いますね。そう言えば、東郷大将も一種の霊覚があると、ぼくは信じますよ。寡黙な方だから自分ではなんとも言われないが、そう信ずべき理由があるのです。旅順封鎖の時でしたが、敵艦隊がその錨地をこっそり奥の方へ移したことがありました。前日まで沖で見ていたのに一夜で消えたのだから、封鎖を破って脱出したのじゃないかと、ぼくなどもうろたえましたよ。ところが東郷大将はただ一言、『敵は内にいる』と断言されたきり、相手にしないのです。あの時の超然とした態度など、霊覚か何かあったとしか思えません」
話は尽きぬ。日暮れ近く座談も終えた頃、秋山はきびきびした態度で王仁三郎に言った。
「ぼくにとっては、実に有意義な一日でした。本当の神さんはたしかにここだと直感します。いずれ出直してきて、みっちり修行にかかりましょう」
秋山を送って、浅野は駅へ向かった。汽車を待つ間にも秋山は止めなかった。
「何とか、ぼくは体験で知った神霊のお働きの根源をつかみたかったんです。一時は明誠教に凝りましたが、一年足らずでいやになり、次に川面凡児(古神道家、古典考究会を主宰)に傾倒して同志を集めて講演会を開いたりしましたが、一、二年で熱が冷め、池袋の天然社にも出入りしましたが、それもあまり長く続かなかった。ぼくなんか、迷信遍歴者の部類か、信仰の前科者といわれても、仕方ないでしょうな」
さばさば言ってのけ、笑いながらつけ足した。
「どこ行って見ても、半年か一年たつうちに、自分の方が偉く思われてくるんですよ」
秋山の長所も短所もこの一語のうちにあらわれていると、浅野は思った。
「秋山は参謀としては天下無比だが、統率の器としてはどうであろうか」と言うのが、海軍部内での定評であった。あまりその頭脳が鋭敏なのに任せて、八人芸を演じたがる所がある。一つの仕事をしているうちに他の仕事を幾つも考えていると言う風で、精力の集中、思慮の周到、意志の堅実さにいささか欠けるのではないかという噂も聞いた。
しかし浅野は、秋山のために弁護したい。軍人でも、政治家でも、官吏でも、ある地位に達すると心の門戸を鎖し、いやにとりすまして精神溌剌の気が乏しくなる。ことに知名の士という奴は、その虚名の傷つくのを恐れて、後生大事に納まり返る。
ところが秋山にはそんな臭味は感じられず、日露戦争の輝かしい殊勲を鼻にぶら下げてもいない。しかも真と直感するものに向かい、周囲の一切の顧慮を捨てて突き進む勇気がある。秋山の遍歴も、そのあらわれではないか。
ついに今、秋山は大本に辿りついた。ここを最後の終着点に願いたい。そして犀利な彼の頭脳をもって、ただ一筋に底知れぬ深さの神諭に取り組んでもらいたい。
秋山と別れて大本へ帰った浅野に、王仁三郎はぽつんと言った。
「呑み込みが早過ぎると言うのも、危険やのう。あの人は生まれ赤子の心になりきれるかな」
秋山の参綾が発火点となり、大正五(一九一六)年十二月中旬から「吾妻」の出港が切迫した大正六年一月七日まで、大本内部は一時海軍村を形成する有様であった。
『神霊界』に掲載された主な人名は、次の通りである。
海軍大佐桑島省三、同四元賢助、海軍機関大尉泉富三郎、新藤機関少佐、松本海軍少佐、鮫島海軍大尉、武藤海軍大尉、有岡機関大尉、糸満機関大尉、香椎海軍大尉、立花海軍大尉、渡辺海軍少尉、佐伯機関少尉。
彼らはいずれも元気旺盛な猛者ばかり、大雪をものともせず、大晦日も元日もお構いなくしげしげと通い、たいてい十一時の終列車で舞鶴へ帰って行く。
大本で霊学や筆先の講釈を聞き、大半は鎮魂を希望する。低級霊の多くは、高級な神名を騙ってごまかしたり、おどしにかかったり、よくよく法螺を吹きたがるものなのだが、海軍士官の鎮魂は概してわけなく発動し、猛烈でそのくせ淡白だった。
立花海軍大尉の場合など、単純明快、審神者が名を問うや否や、大音声を張り上げて、「天狗!」と名乗ったものだ。十二月二十八日に三回目の鎮魂の時には、審神者の王仁三郎に猛突撃して、座にいる者を冷やりとさせた。
糸満機関大尉も一、二丁先まで響く大声でどなる。佐伯機関少尉はどなるだけでなく、跳び上がっては転げ、転げては跳び上がる無類の派手さであったし、桑島大佐・四元大佐の発動も激しかった。軍人の守護霊に天狗が多いのは奇妙であるが、事実であった。
「天狗なんて、どうも人聞きがよくないな。別の名はないかしらん」と恥ずかしがる者もあったが、それでも発動すれば憑霊自身が天狗と言うのだからどうしようもない。
思いもかけぬ海軍軍人の大挙来襲で、主として応接にあたった浅野は、息つぐ間もない忙しさの中に巻き込まれた。それも引越し荷物の片もつかぬ間からである。
十一時に修行者を送り出して大本を出、三浦半島の暖国とは打って変わった和知川の寒風に吹きさらされ、雪道を歩いて深夜の帰宅となる。それから布団にもぐりこみ、眠い眼と戦い戦い原稿を書きなぐる。
※この記事は甲野善紀メールマガジン「風の先、風の跡――ある武術研究者の日々の気づき」 2011年02月06日 Vol.021 に掲載された記事を編集・再録したものです。
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