誰かが笑っていると、つい自分も笑ってしまう「つられ笑い」。内容を理解せずに笑うのっていけないことなんでしょうか? いえいえ。むしろつられ笑いには、人間という生き物が太古の昔から培ってきた叡智が祕められているのです。
笑いの本質は「つられ笑い」にある?
最近、バラエティ番組に出させていただく機会が多いのですが、収録現場にいると感じるのは、会場にいる芸人さん、スタッフさん、そしてお客さんが、あたかも「一つの生き物」のようになることによって「笑い」を作っている、ということです。
その場にいるすべての人が、一つの生き物になって、笑いが起きる。これはなかなか、気持ちのいい体験です。
どれだけ大爆笑をしたとしても、1人でテレビを見ながら笑っているのと、何人かの人と一緒に、身体を共振しあうように笑うのとでは、まったく違った感触がある。他者の身体と共振する笑いこそが、本当の意味での「笑い」の原点なのかもしれない。そんなふうに思うんです。
「笑い」というのは、昔から多くの心理学者や精神科医が取り上げてきた、心理学的には重要なテーマのひとつです。
そのなかでも僕は最近、「つられ笑い」というものに注目しています。バラエティの収録現場のお話をしましたが、自分自身が舞台に立って話しているときや、誰かの舞台を見に行ったときに気になるのは、会場のほとんどの人が笑っているときに、その笑いに断固としてつられず、むすっとした顔をキープし続けている人の存在です。
もちろん、面白くないのに無理に笑う必要はありません。笑う・笑わないのはその人の勝手ですから、つまらなければ笑わなければいい。ただ、たとえ自分が面白いと思っていなくても、周囲の人が笑っているとついつられて笑ってしまう「つられ笑い」が生じること自体は、決して不自然なことではなく、むしろ人間にとって自然な現象だと思うんです。
なぜなら、人間というのは基本的に、周囲の人間が大爆笑していればつられて笑い、号泣していればもらい泣きし、怒号がうずまいていればだんだんとアドレナリンが出て興奮してくるというような、周囲との同調性を強くそなえた生き物だからです。このことは、もともと、集団生活を営んできた生き物であることを考えれば、当然のことですね。
そう考えると、「面白いから笑う」のではなく「誰か(仲間が)笑っているから笑う」というほうが、実は「笑い」の王道なのかもしれない。そんなふうにも思うんです。
実際、よそ見をしている間にみんながドッと笑った。その瞬間、「え? いまみんななんで笑ってるの?」と思いながらも、自然と顔がほころんでいた。小学校の頃などは、そういう経験をしたことのある人は少なくないはずです。
ところが大人になるとだんだんと、そうした「つられ笑い」をしなくなる人というのが増えてきます。特に男性にその傾向が顕著なようにも感じるのですが、そういう人は「自分自身が心の底から面白いと思ったわけじゃないのに、つられて思わず笑ってしまう」というつられ笑いは「良くないもの」と考えている節もあるようです。
もちろん、周囲の人がなんといおうと変わらない信念のようなものはあっても良いでしょう。誰かを軽んじたり、バカにするような笑いを否定する意味で、意識的に「ムスッ」としているなら、それはそれでいい。
でも、そういった明確な意図もないのに、周囲の人の笑いにまったくなびかないのは、ちょっと身体と心が「重く」なってきている「要注意サイン」かもしれない。そう感じています。
身体と心が重くなっていませんか?
イソップ童話に「樫の木と葦」というお話があります。
こんなお話です。
※
細い葦が生いしげる小川の近くに、巨大な樫の木があった。
風が吹いても、大きな樫の木はびくともしなかったけれど、
葦は風になびいて、頭を垂れていた。
樫の木は、そんな葦をみて哀れんでいたけれど、
葦のほうは気にもしていなかった。
しかしあるとき、大きな台風がやってきて、
あたり一帯がものすごい暴風雨にさらされた。
葦がいつもどおり、頭を垂れて嵐が過ぎ去るのを待っていると、
風に対して踏ん張っていた樫の木が、
根元からバリバリと音を立てて倒れてしまった。
※
僕は幼い頃、この話が大好きで、母親になんども繰り返し読んでもらっては、樫の木が折れるところで大喜びしていたらしいのですが(変な子供ですね)、このお話は「かたくなで頑固な心」と「しなやかで柔軟な心」の対比として読むことも可能だと思います。
「風が吹いてもぴくりとしもないようなかたくな心」は、一見何にも揺るぎなく、強いように見えるけれど、いざというときに「ポキり」と折れてしまうもろさを抱えている。
「つられ笑い」が起きない身体や心からは、「葦」のようなしなやかさが失われ、樫の木のようにかたく、凝り固まりつつある印象を受けます。
実際、「つられ笑い」をしない人に聞いてみると、たいていは「つまらない!」と思っているわけではないといいます。それなりに「ああ、面白いな」とは思っている。しかしながら、「笑顔」や「声を出して笑う」というレベルまで感情として表現できないというんですね。
身体が力み、緊張し、身動きが取れなくなってしまうと、腹の底から笑うことができなくなります。特に横隔膜のあたりが固まってしまうと、「面白い」と思っても「笑い」に昇華しなくなってくる。頭の中は笑っていても、身体が笑えない。そして、身体から笑えない人は、他人とシンクロできないのです。
また、そういう人は「笑い」にはシンクロしないけれど、「怒り」や「不安」といった感情にはシンクロしやすくなります。なぜなら、怒りや不安といった感情は、身体が力み、呼吸がつまるような身体感覚とともにあるものだからです。
リラックスしている人よりも緊張している人のほうが、怒りや不安といったネガティブな感情に同調しやすいということは、経験的にはみなさんご存知の通りです。例えば、電車の中で誰かが怒鳴り合いの喧嘩を始めたとする。その「怒り」の感情を完全にシャットアウトして、自分だけは涼しい顔でいる、ということができるかどうか。自分がイライラしていたり、緊張していたりすると、あっという間に「怒りの空気」に感染してしまう、ということが起きる。
一方で、「笑い」の場合、そうしたガチガチに固まった心身では決してシンクロできません。「つられ笑い」が起きにくい人は、周囲の人の怒りや不安に同調し、笑いには同調しにくい。そういう状態にあるということです。
軽やかな笑いをどう取り戻すか
ちょっと、あなた自身の経験を振り返ってみてください。最近、「つられ笑い」をしたのはいつだったか。
いまの日本人を見渡してみると、老若男女多くの人が、「つられ笑い」が起きない身体に陥りつつあるように思います。要するに、身体がかたくなり、心が重くなってしまい、笑いにはシンクロせず、怒りや不安ばかりに同調しやすくなってはいないでしょうか。
その背景には、日本人の多くがある種の「信仰」を失いつつあることが、影を落としているように思います。
かつての日本人は、キリスト教やイスラム教のような一神教信仰は持っていなかったものの、「家族」や「会社」といった、寄りかかる対象を持っていました。しかし、いまの日本人の多くは、自分なぜ自分が働き、家族を養い、生きているのかということについての、明確な答えを持っていません。
こういう生きる上での「柱」を持っていないと、人間というのはどうしても、不安にさいなまれやすくなります。それは結局のところ「何も信じていない」人間は、「無意識の信仰」に取り憑かれやすいからです。
そもそも私たちは「なぜ働くのか」「なぜ生きるのか」という問いから完全に目をつぶったまま生きていくことができない生き物です。ですから、目に見える答え(=信仰)を持たない人間は、一見、信仰の縛りから自由になっているように見えて、気づかないうちに「無意識レベルの信仰」に支配されることになる。それは例えば、見るもの、触れるものすべてを疑おうとする懐疑主義や、単純な理屈によって世界のすべてを説明しようとする、短絡な論理主義といったものです。
こうした無意識レベルの信仰の厄介なところは、自分が何を信じているのか、ということを認識しづらい点です。自分が何を信仰しているかを知っている人は、その対象との距離感を意識することができる。しかし、無意識レベルの信仰の中で生きている人は、自分が信じているものを社会の真実だと信じて疑うことができなくなるんです。
実はこのことが「つられ笑い」が生じるようなゆとりを、私たちの心と身体から奪ってしまった大きな要因となっているのではないかと僕は思うんです。
わかりづらい話で申し訳ありません。少し具体的なレベルに引き戻して、結論を申し上げましょう。私たちに必要なことは、自分が何を信じ、何をよすがにして生きているのか、ということをしっかりと認識しておくこと。そのうえで、身体をほぐし、心を落ち着け、明るくしていくこと。この2点だと思います。
もちろん、朝早く起きて身体を動かし、ほぐしておくことだけでも、やわらかな身体、余裕のある心を育む上で、かなりの効果があるでしょう。しかし、それだけでは、自分の無意識レベルにあるかたくなな信仰をほぐしていくというところまでは届きにくい。それをほぐしていくためには、いかに生きるか、何のために生きるのかという「学び」が必要なのです。
今、多くの方々が「仏教」に関心を寄せていると聞きます。その理由も、もしかするとこのあたりにあるのかもしれません。自分たちはなぜ生きているのか。なぜやがて死ぬ運命にありながら、日々を生きているのか。その問いの答えに、真剣に向き合いたい。そういう思いを持つ人が増えているのではないでしょうか。
空海は繰り返し、繰り返し、「学問」と「行」は仏道修行の両輪であることを説いています。自分の外側にある目指すべき道、頼るべき柱を知ると同時に、自分の内側を日々の行によって磨いていくということ。それこそが、「つられ笑い」を失った身体と心に求められていることだと思うのです。
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