内田樹のメルマガ『大人の条件』より

メディアの死、死とメディア(その1/全3回)

「一期一会」が身体実感としてあった

内田:今、平川君が言ったみたいに、確かに禅や茶の湯などが日本的な美的生活の原型を作ったと思う。だけれど、それは戦国時代でしょう。死が非常に身近にあった時代の話で。今、対面してしゃべっている人間と次にいつ会えるか分からない。もう会えないかも知れない。「これが今生の見納めかも……」ということが、年齢と関係なしに日常的にあったと思うんだよね。

「一期一会」というのはメタフィジカルな意味ではなくて、身体実感としてあった。「ここでお別れしたら、あなたとはこれきりかもしれないから」という切迫感があったから、とりあえず手元にあるもので、最大限のもてなしをする。今ここに、空間があって、お茶碗があって、水が一杯あったら、これを今生の別れの席に見立てて、唯一無二のかけがえのない時間として共有する。そういうリアルな切迫感があったと思うんだよ。

これは養老(孟司)先生が言っていたことだけれど、江戸時代以降は都市文化になった。けれども、戦国時代、つまり、17世紀のはじめぐらいまでは、まだぎりぎり都市文化にはなっていない。人間自身も脆く、壊れやすい身体を持っているし、住んでいる街もすぐに戦火に焼かれて「大廈高楼も一夜にして灰燼に帰して……」という感じで、万事儚く、常ならず、ということが身体実感としてあった。

年齢と関係なく「死」が切迫してた。だから、今生きている時間をどう意味のあるものにしていくか。それが実存的な課題としてつねに迫っていた時代だったと思う。そういう時代だから、美的なものが集中的に錬成されていった。そういうことじゃないかな。

平川:心中というのがあるでしょう? 『心中天網島』の(※2)。

※2 近松門左衛門作の人形浄瑠璃。享保5年(1720)初演。全三段の世話物で、同年に起きた、紙屋治兵衛と遊女小春の心中事件を脚色したもの。『心中天の網島―現代語訳付き』

内田:近松のね。

平川:そう。すごく流行したらしいんだけど、まったく暗くないんだよね。それで心中することが目的みたいになっている。そんな風に江戸研究の学者さんが話しているのを聞いたことがあるんですが、この心中というのも、「死」が生活の中に頻繁に現れているというか、「死」がすぐ隣にないと、出てこない発想だと思いますよ。

さきほど言った「ジ・エンド」、「ゴール」というのは、基本的には経済成長史観なんだよね。そうではなくて、君が言いたかったのは、「死と生はあざなえる縄のごとく、いつも一緒に存在している」ということだと思うんだよね。それで、あの文章を書いたのはなぜ?

1 2 3 4

その他の記事

宇野常寛特別インタビュー第6回「インターネット的知性の基本精神を取り戻せ!」(宇野常寛)
晴天率と自由な気分は比例するという話(高城剛)
週刊金融日記 第289号<ビットコイン・ゴールド 金の雨が天から降り注ぐ、自民圧勝で日経平均未踏の15連騰か他>(藤沢数希)
夫婦ってなんなんだ、結婚ってなんなんだ(切通理作)
「昔ながらのタクシー」を避けて快適な旅を実現するためのコツ(高城剛)
世界を息苦しくしているのは「私たち自身」である(茂木健一郎)
「実現可能な対案」としての『東京2020 オルタナティブ・オリンピック・プロジェクト』(宇野常寛)
そもそも国にGAFAなどプラットフォーム事業者を規制できるのか?(やまもといちろう)
アマチュア宇宙ロケット開発レポート in コペンハーゲン<前編>(川端裕人)
オーバーツーリズムの功罪(高城剛)
「人間ドック」から「人間ラボ」の時代へ(高城剛)
働かないのか? 働けないのか? 城繁幸×西田亮介特別対談(後編)(城繁幸)
(3)プレッシャーの受け止め方(山中教子)
食欲の秋、今年は少しだけ飽食に溺れるつもりです(高城剛)
コロナウイルス(COVID-19)対策で専制・共産国家のやり方を称賛するのって怖ろしくない?(やまもといちろう)

ページのトップへ