「公」の宗教と「私」の宗教
私が現時点で明確な「信仰」を持っていない理由も、その牧師さんを知っているからです。
「本当に信仰を持つとは、ここまで人を『深める』のか……」
思考の深さ、人間としての度量、威圧感とは異なる、人間としての迫力……。それは、安易に「宗教多元主義」を唱える人たちや、私の身近にいる「もの凄く頭の切れる」理系の先生方、先輩方とは比較にならないほどの人間としての「深さ」なのです。
「本当に信仰を持つということは、ここまで行かなければならないのか。いや、たとえ行けなくとも、それくらいの『覚悟』を伴わなければ、本当に『信仰を持った』ことにはならないのではないだろうか……」。
今でも私はそう思っています。であるからこそ、私は安易に信仰を持つことができないのです。(もちろん、「まさに今」苦しんでいる方々が、藁をも掴む気持ちで信仰を持つこととは別の次元の話です)
「公的な」次元で考えれば、確かに一神教は宗教戦争を含め、様々な「問題」を含んでいると指摘することもできるでしょう。それに対して、たとえば初期仏教はオカルト的なものは一切認めない「科学的」なものである、とか、日本仏教は全ての存在に仏性を認める「山川草木悉有仏性」の世界であり、これからの世界に必要とされる宗教である、などと考えることもできるでしょう。
こうした主張はある面、事実であり、それらに対してことさらに異論を唱えるつもりはありません。
しかし、「個人」のレベルでの信仰を考えれば、極端な話、そんなことは「どうでもいいこと」なのではないでしょうか。
仏教を信仰しても全く「深み」がない人もいれば、さきの牧師さんのように、一神教の信仰者でも「本当の信仰」を生きていらっしゃる方もいるのです。
それは「縁」もあるでしょうし、何より「自分が抱えている切実な問題」と、その宗教の教えとの「関係性」、「それ以外には、私が『身を寄せる教え・存在』はあり得なかった」という一回性の、私的かつ切実な「信仰者と信仰対象」のあいだにある「関係性」によるのだと思います。
これは「客観的にこの宗教が一番正しい」という問題ではないのだと思います。まさに「その人にとっては、その人の切実なる問いを引き受けるには、誰が何と言おうと『それしかなかった』」という、個人的な、一回性のできごとなのではないでしょうか。
私が尊敬する信仰者の方々は、皆そのようにして信仰と向き合われているように思うのです。その人間が抱える「問いの切実さ」に優劣などないはずです。そしてそれを「客観的に」判断することもできないはずです。
話は戻りますが、ある宗派を「科学的にも妥当である」という議論に対して私が違和感を持つのもその点なのです。「科学的にも矛盾はない。他のオカルト宗教とは違う。あくまでこれは理性的な宗教、科学的な宗教なのだ」。公的にはそれで良いのです。
しかし、個のレベルでは、「自分が信じる教えが『科学的』かどうか、そんなことはどうでも良い」という場合もあるはずです。「科学的だろうがなんだろうが、『この私』が抱える切実なる問いに、その教えは何も答えてくれない」となれば、その個人にとって、その宗教など「無意味」なはずです。
「この私の苦しみ」「この私の切実な問い」などは、そもそも「科学的」なものではありません。その宗派が「科学的か否か」など、ある個人にとっては「どうでもいいこと」であることも必ずあるはずなのです。

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