どこまでも「切らない」世界を追求すること
これは昨年の夏、初めて夜間飛行のこの場所に原稿を書かせていただいた際にも申し上げたことなのですが、森田さんの数学における「連続と離散」のお話を伺った時に、自分の中でそのことが繋がりました。
具体的に申し上げますと、科学と宗教を「同時に引き受けた」人物である宮沢賢治の「問い」は、ある意味では「連続と離散」の問題だったのではないか、そして「科学と宗教」、「生と死」、そして「言語」の問題の背後に通奏低音のように流れている問題こそが「連続と離散」なのではないか、と思ったのです。
以前も引用させていただきましたが、吉本隆明氏は宮沢賢治について、以下のように書かれています。
「宮沢賢治は、自分は銀河系の一員であり、銀河にある太陽系の中の地球にある陸中、イーハトーブである、というようなことを言っています。となりの人や家族、社会といった人間同士の横の関係よりも、真っ先に天の星と関係していると考えていたように思います。そして、宮沢さんの考えを突き詰めていくと、人は銀河の寿命と同じだけ生きていける、という考え方に行き着くと思います。宮沢さんははっきりとそうは言っていませんが、そういうことになると僕は思うんです。
宗教家であり、科学者でもあった宮沢さんは、死とはどういうことかとか、死ぬのが怖いのはどうしてなのかといったことを、考えに考え抜いたんだと思います。そして、宗教とはその区切り目をつけないこと。つまり、銀河がある限り自分もある。永遠に生きる。死との区別をしないで、みんな生の延長だという考え方に宮沢さんは至ったと、僕は思っているんです。
そして、それはもはや幸福とか不幸とかの定義を超えたところにあるのだと思います。」(『老いの幸福論』)
連続(信仰)と離散(科学)を「両立」させること。大雑把な分け方であることを承知したうえで書かせていただきますが、「科学」とは「世界を分節化し、細かく切り分けて理解する営み」であるとすれば、「宗教」とは「どこまでも『切らない』世界を追求するもの」であるということです。
「私」と「あなた」を「切らない」。「人間」と「動物」を「切らない」。「生者」と「死者」を「切らない」。「生」と「死」自体を「切らない」。突き詰めていけば、みんな「同じ」であるという考えこそ、宮沢賢治の「信仰」だったのではないでしょうか。
また、これも以前触れた内容なので要約して書かせていただきますが、養老孟司氏は「死体」をあくまで「自分と同じ人間」であり、「自分と連続したもの」であると自分自身の身体が納得した時点で、「解剖という行は終わった」と思われたそうです。そして河合隼雄氏は、「魂」とは「分けられないものを明確に分けた途端に消えるもの」であり、「男と女」でも、「障害がある・ない」でも全て同じで、そういう区別を全部消して見ることが、「魂の観点からものを見ること」であると仰っていました。
本来、世界は「切れていない」。それを「切れている」と認識するのは人間です。その「いったん切れてしまった世界」を「切れていないもの」として認識しなおすことと、宗教的なものを含めた様々な「行」は深く関わるのではないかと、私は考えています。そして、まさにその「切る」という行為を行うもの(のひとつ)が「言語」です。
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