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<田口慎也氏から甲野善紀氏への手紙>
甲野善紀先生
今回も、お手紙をありがとうございました。甲野先生のお若い頃のエピソードについては、農業と袂を分かって武術の道に入られるまでの経緯など、存じ上げているものもあれば、初めて伺ったものもあり、大変興味深く拝読いたしました。
前回のお手紙のなかで、甲野先生は御自身が抱えられている「切実な問い」と「武術」とが繋がるまでの過程について、以下のように書かれています。
私が武術を始めた動機は「人間にとっての自然とは何か」「運命は完璧に決まっていて、同時に完璧に自由である」という事を体感を通して実感したい! という事だったのですが、この『山岡鐡舟』で禅と剣に対する関心が掻き立てられていなかったら、自分を見つめ直すキッカケになった、現代栄養学や農業の在り方への疑問が武術の方向へは向かなかったかもしれません。
私自身は「人が生き、そして死ぬとはどういうことか」という問いを抱えていますが、その問いと、私が現在学んでいる「言語学」とがどのようにつながるのか、その点が実はいまだに完全には言語化できておりません。ですが、2年ほど前から甲野先生や数学者の森田真生さんのお話を伺うようになり、少しずつですが、自分にとっての「言語を問うことの意味」が明確になってきました。
前回は、高校時代までの私が置かれていた状況、およびそのような状況のなかでの私の「問い」の形成過程について書かせていただきました。今回は、その後私が言語学を選び、言語について問うようになるまでの経緯と、現在の私が考えている「私にとって」の言語を問うことの意味について書かせていただこうと思います。
消極的な選択だった
前回のお手紙にも書かせていただきましたが、さまざまなご縁が重なり、私は私の入学年に開校した通信制高校に通うことになりました。そしてこの高校時代に、初めて甲野先生の存在を知ることになりました。
高校卒業後の進路については、特に希望があったわけではなかったのですが、お世話になった恩師の方から「あなたは耳がいいから、とりあえず外国語を専攻してみたらどうか」と言われ、特にほかにやりたいと思ったこともなかったため、その指示通りに進路を選択いたしました。
学部は外国語学部スペイン語学科出身で、中学・高校ではほとんど「学校で勉強をする」という機会がなかったので(中学校は正規課程の半分ほどしか行っておりません)、大学で初めて、「学ぶ」ことの面白さに気づきました。そして「大学院に進学したい」と思うようになりました。もちろん、大学時代も上記の「問い」が消えることはなく、具体的な「解決策」など見つからぬまま、自分なりに考え続けるという日々を送っていました。それが、以前書かせていただいた牧師さんとの出会いにもつながってゆくことになります。
大学院進学の際、歴史や文学を専攻するという道もありましたが、「何かが違う」と思い、私は言語学を選びました。そういう意味では、私は「積極的」に言語学を選んだわけではありません。「消極的」に、残ったものが言語学だったということです。言語について考察したり、様々な言語現象を観察したりすることが楽しくて楽しくて言語学を選んだ、というわけではありませんでした。では、何故私はあの時に言語学を選んだのか。今の私が言語化できる範囲で申し上げますと、研究対象として、ある意味「安心」だったからだと思います。
それは、言語の「中立性」によります。言語とは「自然」と「人工」の「あいだ」にある存在です。それは「文化的」な面も持つ反面、言語自体は「人間が作り出したもの」ではなく、ある意味で「自然現象」としての面を持ち合わせています。そして、言語自体を人間が「完全にコントロール」することはできません。言語変化といった現象も、人間の意志とは関係なく起きるものです。その法則性はいまだに解明されておらず、今後どのように言語が変化していくのか、我々が完全に予測することなどできません。
また言語に対しては、理系的なアプローチも文系的なアプローチも可能です。いわゆる「学際性」が非常に高いのです。また、言語そのものには「思想」はありません。要するに、科学者であれ、宗教者であれ、右であれ左であれ、「使っている言語そのもの」は「同じ」ではないか、ということです。私にとっては対象そのものが「科学的か否か」といったことから「中立」であるということが、もの凄く「安心」だったのだと思います。
また、言語学は「具体的な事実」を提示しなければ意味のない学問です。つまり、抽象的に「言語とはどのようなものか」と考えているだけでは何にもならず、論じるに値する「具体的な事実(言語現象)」を必ず提示し、議論していかなければなりません。「言語自体が抽象的な存在であり、そのような『具体的な事実』など、たとえば生物学的な『事実』に比べれば『具体性』などないに等しい」という考え方もあるかと思いますが、少なくとも私にとっては、「その程度の具体性」でも「通過」する必要があるのではないか、と考えました。元来が抽象的な思考にはまり込んでしまう性格であり、「少しでも具体的な現象を扱う」という「私にとって『苦手』な行為」を通過しなければ、「人が生きて死ぬこと」について、これ以上「深く」考えることは不可能ではないのか、と思ったのです。
謙遜でもなんでもなく、私は「言語学の才能があるから」とか、「人一倍、言語や言語学に関心があるから」といった理由から言語学の道を選んだわけではありません。そうではなく、「言語学という『行為』を行うこと自体が、自分自身が今後生きて、考えていくときに、何らかの力となるのではないか」という想いによって、言語学を「選択」しました。
そして今は、言語を問うこと自体が、ある意味「科学と宗教」や「生と死」を問うことと「同じ構造」を持つ「行為」なのではないか、と考えています。これらをつなぐものは「連続と離散」と「問いと応答」です。
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