甲野善紀
@shouseikan

対話・狭霧の彼方に--甲野善紀×田口慎也往復書簡集(9)

言語を問うことの意味

<甲野善紀氏の新作DVD『甲野善紀 技と術理2014 内観からの展開』好評発売中!>

kono_jacket-compressor

一つの動きに、二つの自分がいる。
技のすべてに内観が伴って来た……!!
武術研究者・甲野善紀の
新たな技と術理の世界!!


武術研究家・甲野善紀の最新の技と術理を追う人気シリーズ「甲野善紀 技と術理」の最新DVD『甲野善紀 技と術理2014――内観からの展開』好評発売中! テーマソングは須藤元気氏率いるWORLDORDER「PERMANENT REVOLUTION」!

特設サイト

amazonで購入する

 

※甲野善紀氏からの第一信が読めるバックナンバーはこちらから →

第21号
第22号
第23号

 

<田口慎也氏から甲野善紀氏への手紙>

甲野善紀先生

今回も、お手紙をありがとうございました。甲野先生のお若い頃のエピソードについては、農業と袂を分かって武術の道に入られるまでの経緯など、存じ上げているものもあれば、初めて伺ったものもあり、大変興味深く拝読いたしました。

前回のお手紙のなかで、甲野先生は御自身が抱えられている「切実な問い」と「武術」とが繋がるまでの過程について、以下のように書かれています。

私が武術を始めた動機は「人間にとっての自然とは何か」「運命は完璧に決まっていて、同時に完璧に自由である」という事を体感を通して実感したい! という事だったのですが、この『山岡鐡舟』で禅と剣に対する関心が掻き立てられていなかったら、自分を見つめ直すキッカケになった、現代栄養学や農業の在り方への疑問が武術の方向へは向かなかったかもしれません。

私自身は「人が生き、そして死ぬとはどういうことか」という問いを抱えていますが、その問いと、私が現在学んでいる「言語学」とがどのようにつながるのか、その点が実はいまだに完全には言語化できておりません。ですが、2年ほど前から甲野先生や数学者の森田真生さんのお話を伺うようになり、少しずつですが、自分にとっての「言語を問うことの意味」が明確になってきました。

前回は、高校時代までの私が置かれていた状況、およびそのような状況のなかでの私の「問い」の形成過程について書かせていただきました。今回は、その後私が言語学を選び、言語について問うようになるまでの経緯と、現在の私が考えている「私にとって」の言語を問うことの意味について書かせていただこうと思います。

 

消極的な選択だった

 

前回のお手紙にも書かせていただきましたが、さまざまなご縁が重なり、私は私の入学年に開校した通信制高校に通うことになりました。そしてこの高校時代に、初めて甲野先生の存在を知ることになりました。

高校卒業後の進路については、特に希望があったわけではなかったのですが、お世話になった恩師の方から「あなたは耳がいいから、とりあえず外国語を専攻してみたらどうか」と言われ、特にほかにやりたいと思ったこともなかったため、その指示通りに進路を選択いたしました。

学部は外国語学部スペイン語学科出身で、中学・高校ではほとんど「学校で勉強をする」という機会がなかったので(中学校は正規課程の半分ほどしか行っておりません)、大学で初めて、「学ぶ」ことの面白さに気づきました。そして「大学院に進学したい」と思うようになりました。もちろん、大学時代も上記の「問い」が消えることはなく、具体的な「解決策」など見つからぬまま、自分なりに考え続けるという日々を送っていました。それが、以前書かせていただいた牧師さんとの出会いにもつながってゆくことになります。

大学院進学の際、歴史や文学を専攻するという道もありましたが、「何かが違う」と思い、私は言語学を選びました。そういう意味では、私は「積極的」に言語学を選んだわけではありません。「消極的」に、残ったものが言語学だったということです。言語について考察したり、様々な言語現象を観察したりすることが楽しくて楽しくて言語学を選んだ、というわけではありませんでした。では、何故私はあの時に言語学を選んだのか。今の私が言語化できる範囲で申し上げますと、研究対象として、ある意味「安心」だったからだと思います。

それは、言語の「中立性」によります。言語とは「自然」と「人工」の「あいだ」にある存在です。それは「文化的」な面も持つ反面、言語自体は「人間が作り出したもの」ではなく、ある意味で「自然現象」としての面を持ち合わせています。そして、言語自体を人間が「完全にコントロール」することはできません。言語変化といった現象も、人間の意志とは関係なく起きるものです。その法則性はいまだに解明されておらず、今後どのように言語が変化していくのか、我々が完全に予測することなどできません。

また言語に対しては、理系的なアプローチも文系的なアプローチも可能です。いわゆる「学際性」が非常に高いのです。また、言語そのものには「思想」はありません。要するに、科学者であれ、宗教者であれ、右であれ左であれ、「使っている言語そのもの」は「同じ」ではないか、ということです。私にとっては対象そのものが「科学的か否か」といったことから「中立」であるということが、もの凄く「安心」だったのだと思います。

また、言語学は「具体的な事実」を提示しなければ意味のない学問です。つまり、抽象的に「言語とはどのようなものか」と考えているだけでは何にもならず、論じるに値する「具体的な事実(言語現象)」を必ず提示し、議論していかなければなりません。「言語自体が抽象的な存在であり、そのような『具体的な事実』など、たとえば生物学的な『事実』に比べれば『具体性』などないに等しい」という考え方もあるかと思いますが、少なくとも私にとっては、「その程度の具体性」でも「通過」する必要があるのではないか、と考えました。元来が抽象的な思考にはまり込んでしまう性格であり、「少しでも具体的な現象を扱う」という「私にとって『苦手』な行為」を通過しなければ、「人が生きて死ぬこと」について、これ以上「深く」考えることは不可能ではないのか、と思ったのです。

謙遜でもなんでもなく、私は「言語学の才能があるから」とか、「人一倍、言語や言語学に関心があるから」といった理由から言語学の道を選んだわけではありません。そうではなく、「言語学という『行為』を行うこと自体が、自分自身が今後生きて、考えていくときに、何らかの力となるのではないか」という想いによって、言語学を「選択」しました。

そして今は、言語を問うこと自体が、ある意味「科学と宗教」や「生と死」を問うことと「同じ構造」を持つ「行為」なのではないか、と考えています。これらをつなぐものは「連続と離散」と「問いと応答」です。

1 2 3
甲野善紀
こうの・よしのり 1949年東京生まれ。武術研究家。武術を通じて「人間にとっての自然」を探求しようと、78年に松聲館道場を起こし、技と術理を研究。99年頃からは武術に限らず、さまざまなスポーツへの応用に成果を得る。介護や楽器演奏、教育などの分野からの関心も高い。著書『剣の精神誌』『古武術からの発想』、共著『身体から革命を起こす』など多数。

その他の記事

Netflixを「ちょいはやチェック」する(西田宗千佳)
国民の多極分断化が急速に進むドイツ(高城剛)
週刊金融日記 第272号<高級住宅地は子育てにまったく向かないという話 他>(藤沢数希)
なかなか技あり、行列を緩和する「イベントアプリ」(西田宗千佳)
世界情勢の大きな変わり目を感じる今年の終わり(高城剛)
脳と味覚の関係(本田雅一)
NFCでデータ転送、パナソニックの血圧計「EW-BW53」(小寺信良)
人は自分のためにではなく、大好きな人のためにこそ自分の力を引き出せる(本田雅一)
6月のガイアの夜明けから始まった怒りのデス・ロードだった7月(編集のトリーさん)
Ustreamが残したもの(小寺信良)
世界のクリエイターに愛されるノートの物語(ロバート・ハリス)
マイナンバーカードについて思うこと(本田雅一)
三浦瑠麗の逮捕はあるのだろうか(やまもといちろう)
コロワイド買収のかっぱ寿司が無事摘発の件(やまもといちろう)
影響力が増すデジタルノマド経済圏(高城剛)
甲野善紀のメールマガジン
「風の先、風の跡~ある武術研究者の日々の気づき」

[料金(税込)] 550円(税込)/ 月
[発行周期] 月1回発行(第3月曜日配信予定)

ページのトップへ