甲野善紀
@shouseikan

対話・狭霧の彼方に--甲野善紀×田口慎也往復書簡集(10)

得るものがあれば失うものがある

病床で考えていたこと

 

小麦は剛毛状の毛のような穂が出ていますが、これは本来、小麦の種子が十分に熟して種子としての機能が完成すると、タンポポやススキが風に飛ばされて種子を広く拡散させるために種子の上に綿毛のようなものがついているのと同じ働きを持つものでした。

ですから、元々の小麦は種子が熟すと、その種子は麦の桿から離れて空中に飛び散っていたのです。しかし、それでは農業を行なって作物を効率的に大量に収穫して貯えるには都合が悪いわけで、農業を行なう人間としては、十分に熟し、種子として中身が完成しても、そのまま麦の桿についたまま飛んで行かない性質のものが望ましいわけです。

そして、そうした人間の思いに応える、種子が熟しても飛散せず、そのまま桿についたままの小麦が現われたのです。そうなれば、人間は、その人間といわば契約を交わした麦をもっぱら育て、やがて麦といえば皆、人間が脱穀を要するような、つまり成熟しても桿から離れないものばかりとなっていきました。「麦はなんで人に媚びて飛ぶのを止めたのかなあ」と、私は漸く体が動くようになってきた病床で、タメ息をつきました。

既にかなり知られている事ですが、他の動物と同じような採取生活をしていた頃の人類は、環境破壊もしませんし、大規模な戦争や殺し合いも行ないませんでした。例えば『黒船前夜』(幕末や明治の初めの、日本の印象に驚いた西欧人の著作を集めて論評した名作『逝きし世の面影』を書かれた渡辺京二先生の最近の著作)の中に、西洋人がアイヌの人々に会って「これほど善良な民族を見たことがない」と驚いていることが書かれています。

もちろん、狩猟、採取生活をしていれば、科学技術の発達もなく、当然便利な道具や機械の恩恵も受けられないでしょう。その代わり、現代のようにいろいろなところに矛盾が吹き出し、環境破壊にエネルギー危機と、すでに出来上がっているシステムを維持するためだけでも様々な犠牲が強いられる時代とは無縁でいられたでしょう。

とはいえ、もちろん12,000年も昔に起きたことをいまさら嘆いても始まりませんし、現に我々が毎日食べているものは、殆どすべて農業によって作り出されたものです。その上、農業を基盤とした文明の発達で様々なものが発明発見され、この原稿を書けるのも、そうした発明の一つである電気の照明のお蔭であることは紛れもない事実です。

 

自然界の「無言の契約」

 

しかし、殆ど歯止めが利かなくなったというか、興味関心の赴くところに向かって暴走している観のある現代社会、そして、それを支える科学の研究から生まれた遺伝子組み換えの作物や脳死状態にして鶏を育てるといった効率最優先の農業や畜産がもたらす未来社会が明るく健康的なものだとは、私はどう考えても思えません。ただ、小麦が熟してから飛ぶことを止め、人間にその後の自分達を委ねて確実に栽培してもらえる事と引き換えに、食料としてその大部分を提供するという無言の契約を結んで、農業が成立したこと自体まったく不自然なことでもないかもしれません。

なにしろ人間以外の自然界の生物の中にも農業を行なうものがいるのですから。その一つであるハキリアリがある種の菌類を育てて食料としていた事は、かなり以前から知られていた事ですが、確かここ10年ぐらいの間に新たに発見された野生生物の農業は、沖縄の海に棲むクロソラスズメダイがイトグサという海洋植物を育てて、これを食料としている事でしょう。

イトグサはそれ自体は大変生育力が弱く、普通には海の中に生えてはいられないほどの虚弱な植物のようです。しかし、その虚弱さ故でしょうか、イトグサは食料にした時、大変消化がいいようです。そのため、クロソラスズメダイは、これを食料として専ら食べているようですが、何しろ放っておいたのでは他の海洋植物の発育に負けてしまうので、クロソラスズメダイがイトグサの生えている畑をいつも見回って、他の海藻などが生えかかっていると、口で銜えて引き抜き、セッセといわば除草をして、自らの食料であるイトグサを育てています。

つまり、お互いが相手を必要としている完全共生関係になっているのです。クロソラスズメダイが、このような農業をいつから始めたのか、それはもちろん分かりません。ですが、何百年といった程度ではない、もっともっと遠い昔からやっていたのではないでしょうか。ただ、この魚の農業が人間のようにドンドン効率を上げるように発展してきていない事は確かです。クロソラスズメダイは、ただイトグサの畑を見回って、他の海藻等が生えようとしたら口で銜えてこれを抜く。クロソラスズメダイの畑の手入れは、これだけでしょう。これだけの事ですが、この畑を金網で覆って、クロソラスズメダイが除草できないようにすると、イトグサは他の海藻類の勢いに負けて消滅してしまうようですから、立派に農業をしていると言えるでしょう。

この農業は進歩も発展もない。けれど、ずっと安定した環境を保つことが出来る。

 

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甲野善紀
こうの・よしのり 1949年東京生まれ。武術研究家。武術を通じて「人間にとっての自然」を探求しようと、78年に松聲館道場を起こし、技と術理を研究。99年頃からは武術に限らず、さまざまなスポーツへの応用に成果を得る。介護や楽器演奏、教育などの分野からの関心も高い。著書『剣の精神誌』『古武術からの発想』、共著『身体から革命を起こす』など多数。

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