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<甲野善紀氏から田口慎也氏への手紙>
御手紙を拝見して、私自身、現代社会の問題等を日頃から色々と自覚しているつもりであっても、いつの間にか現代社会の価値観にずいぶんと取り込まれていた事を、あらためて実感させられました。
特に私の場合、とても私自身で処理しきれないほどの量の仕事を抱え込んでしまっているため、年がら年中時間に追われ、つい時計を見て「ああ、もう何時だ」「えっ!こんなに時間を使ってしまったのか」と、時間を物の資源のように、つい考えてしまっている傾向が、どうしてもあります。そして、それだけに、このように現代人が抱える様々な世間や社会の枠に捉われている事から自由になっている古人の世界に一層憧れるのかもしれません。
その憧れの古人の世界の中でも、私が二十代から深く惹かれていた『荘子』に関して、前回申し上げましたように“天地篇”の中の漢陰の老人の話の筋と、私の意訳をここに紹介し、この話を“天地篇”で紹介している意味とは違って解釈している幕末の剣客、白井亨の例も挙げて、あらためてこの話を検討し直してみたいと思います。
「機械」を使わない老人の喩え
孔子の弟子の子貢が南方へ旅をして、北へ戻る時、漢陰を過ぎたあたりで甕で畑の水やりを行なっている老人に会ったのです。そこで子貢が、その労多くして効果の少ないのをみかねて、その老人に「一日に百もの畝に水をやれ、しかも力を用いることはきわめて少なく効率のいい機械、ハネツルベを使ったらどうです」と教えると、老人は笑って「その事なら師匠に聞いたことがある。ああいう機械を使うと機心が生じて、純白な心が損なわれ、霊妙な生きる営みが損なわれ、道すなわち根源的真理とは離れた生き方しかできなくなる。私はハネツルベを知らないのではなく、あのようなものを使うのは恥だと思って使わないだけなのだ」と答え、この答えに子貢は顔を赤くし、下を向いて何も答えることが出来なくなっていると、この老人は「お前は何をやっている者なのだ」と訊いてきます。
そこで子貢が「孔子の徒なり」、つまり孔子の門人であると答えると、この老人は「君はあの物識り顔をして聖人を気どり、大衆をまどわし、名声を天下に売ろうとしているあの輩なのか。おまえのいまの精神を忘れ、その身体を壊せば多少は道に近づくこともできようが、おまえ自身も治められないようで、どうして天下を治めるなどという事ができるだろうか。さあ、さっさと行ってワシの仕事を邪魔しないでくれ」
こう老人に言われて子貢は顔色も青ざめ、すっかりしょげかえって三十里ほど歩いて行ってから、ハタと顔色を取り戻します。その様子を見た同行の弟子が「さきほどの老人は何者なのでしょう。先生はなぜあの老人に会って顔色を失い、一日じゅう呆然とされていたのですか」と問うと、
子貢は「私はいままでかの人(孔子)のみが、この世で最も優れている人物だと思っていて、他にあの老人のような人物が存在するという事など思ってもいなかった。私は孔子先生に教わった事は、物事はよりよい結果を求め、仕事はより成果が上がるようにすべきだ。より少ない労力で、より成果を上げる事が多いことが聖人の道だという事だった。
しかし、今はそう思っていない。(あの老人に会ったお陰で)道を守って生きる者は、その徳が全うされる。徳が全うされる者は、その身体が全うされ、身体が全うされれば精神もまた全うされる。そして精神の全き者が聖人としての生き方に叶った者なのだ。このような聖人は、この世に生まれた事をそのまま受け取って、多くの人々と共に生きていくので、ことさらどうしようこうしようと思いを巡らす事もなく、ただあるがままに全てを受け取って、人間が本来備わっているものに素直に従っていくだけだ。
便利な機械や巧妙な装置で、より成果を上げようなどという心は、このような人にはまったくないのだ。このような人物は、自らの志しに叶うことでなければ行動を起こさないし、自らの心と符合するようなことでなければ行わない。天下の人々が皆その言葉を認めて褒めたとしても、その事に心が捉われず、超然としているし、天下の人々が皆その言葉や行いを批難し否定しても、少しも気にかけることもない。つまり、天下の人々の毀誉褒貶に、このような人物は少しも影響されることはないのである。このような人物を“全徳の人”という事ができよう。それにくらべて私のような人間は、“風波の民”すなわち他の意見の風によって立つ波のような定見のない者というべきだろう」
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