古今東西のジャズの名盤の中から、筆者が独断と偏見で選んでご紹介する「馬鹿ジャズ名盤講座」、第6回目である。
これまでの記事はこちら。
第1回「彼女を部屋に連れ込んでどうにかしたい時に聴きたいジャズアルバム」
第2回「パチンコで5万円負けてしまった後に聴きたいジャズアルバム」
第3回「殺人事件の容疑者になってしまった時に聴きたいジャズアルバム」
第4回「中島みゆきしか聴きたくないときに聴きたいジャズアルバム」
第5回「京成線を愛でながら聴きたいジャズアルバム」
「死にたい」と願うことは誰にでもある
若い頃には一切わからなかったけれど、歳をとるにしたがって少しずつわかってくる事がある。
私の場合、自殺をする人の状況というものが若い頃には一切わからなかったが、30歳を過ぎた辺りから少しずつ理解が出来てきた。私の周りにも、そうやって自ら死を選んでしまった人間は、悲しい事だが確かにいる。
「死にたい」という感情自体は、私自身も比較的よく抱く。これは若い頃から今も変わらない。二日酔いの朝だったり、過去の自らの恥ずかしい失敗を思い出したりするたびに「ああああーーー、オレもう死んでーーー……」と力なく呟く。自らの無能さや怠惰な本性を自覚した時に「デューク東郷(通称ゴルゴ13)さん、オレを正確に狙撃してっ!」と思う。このような時が1週間の内に7日ほどあるので、「死にたい」という感情を抱くこと自体は私にとっては極めて日常的な話なのである。
とはいえ私は死なない。
痛いのはイヤだし、何より死ぬのは怖いからだ。
また、若い頃に考えていた「死なない理由」の一番大きなところが、「いざとなったら逃げちゃえばいーじゃん」である。
死んでしまいたいほどにイヤな事があったり、人間関係がこじれたりしてしまったら、いよいよまずくなってしまったら。
そうなったら脱兎の如く逃げる! スタコラサッサと逃げる! 全てを捨てて逃げる!
どこかでそんな風に考えていたから、「死にたいという気持ちはわかるけれど、自殺しちゃう人はわからない。死ぬぐらいの勇気があるならば、逃げちゃえばいーじゃん」という風に思っていた。
それが仕事を始めたり家庭が出来たり、つまり具体的に「社会」に組み込まれ始めると、なかなかそこから逃げ出すことは難しいのだ、と気付いた。フランクに「いざとなりゃあ逃げりゃ良いっしょ!」と思っている時は、私自身がさほど「社会」に組み込まれていなかったのだ、ということがわかった。社会を構成する一員となり、様々な関係性の中にあるという事は、私に多くの喜びをもたらすと同時に、無責任に逃げ出して良いという自由を剥奪した。
或いはそれはヒトが人間になる過程の必然なのかも知れない。
いざとなったら逃げちゃえば良い、という選択肢を失った代わりに、人間は究極のリセットボタンとしての自殺を手に入れるのだろうか。または「自らで在る」という矜持を保つ為に、自殺を選ぶのだろうか。それは私にはわからない。私はまだ自殺をしたことがないし、当面の所する予定もない。
また、逃げ出した所で何も物事が好転しないというのも、ある程度は経験から推察することも出来る。
じゃーどうすっかなー、やっぱ死ぬしかねーかー、イヤだなー、こええなー、それもなんだかなー。
そんな感じで自殺を葛藤するという感覚は、若い頃よりも今の方が理解度が高い。
大事なのは逃げ道の確保である
仮に、全ての命に等しく生きる価値があり、この世は生きるに値するものなのだと仮定する。
実際のところがどうなのだかはわからないが、私はやはりそうであればいいなと、一つの理想としてそう願っているフシがある。全ての命に等しく生きる価値があればいいな、この世は生きるに値するものだといいな、と。
その仮定にのっとって話を進めるならば、出来る限り自殺はしない方が良い。
「何のために生きるのか」という問いに対して、私は「念のため」という回答を用意している。生きていれば何かしらの良いことがあるかも知れない(ないかも知れない)。その時のために、念のために生きておいた方が良いではないか、と。
「死にたい」という欲求が人間の根源的な部分に根ざすものであり、それ自体を否定することは難しい。だとするならば、人間に必要なものは逃げ道である。
先に述べたように、社会を構成する一員となってしまうと、全てを放り出して逃げる、ということは現実味を持たない。しかし、どこかに確実に逃げ道が必要になる。
そんな時に、期せずして音楽が逃げ道となることがある。音楽が、「まーなー、オマエみたいに下らねえ奴もそうそういねーけどさー、ま、良いって、生きてたって。取り立てて死ぬ必要もねーだろー」と赦してくれることがある。
no music, no life という言葉を私はあまり信用していない。音楽がなくても人間は生きていくことは可能だ。しかし、音楽があるおかげで死ななくても済む、ということも、やはりどこかで信じている。
今回紹介したいアルバムは、ピアニスト、アブドゥーラ・イブラヒムが2008年に発表したソロピアノ・アルバム『SENZO』だ。
アブドゥーラ・イブラヒム 『SENZO』
<彼の祖父の名「センゾー」に日本語の「先祖」をかけたタイトル。ジャケットにも漢字で小さく「先祖」と書かれている>
ピアニストである筆者が最も強い影響を受け、そして強い敬意を抱いているピアニストがこのアブドゥーラ・イブラヒムである。
個人的に強すぎる思い入れのあるピアニストであるから、かなりのえこ贔屓の情が挿し挟まるのはご容赦いただきたいが、彼のピアノを聴くたびに「ま、オレも生きていてもオッケー!」と、ちゃっかり自己肯定をする。それはアブドゥーラの音楽のスケールの大きさが、私の悩みなどまるで取るに足らない小さなものなのだと一笑に付し、「大丈夫だよ、生きてて。困ったらまたここにおいで」と私に逃げ道を確保してくれるからだ。
スケールの大きさ、ということで言えば、これほどにスケールの大きな音楽もそうそうない。そしてここまで美しい音楽もそうそうありえないと私は感じている。
アフリカの大地、南アフリカ共和国で生まれたアブドゥーラは、若い頃から一貫して「アフリカ」をモチーフにして音楽を紡いできた。当初はダラー・ブランドの名前で活躍し(1970年代にアブドゥーラ・イブラヒムに改名)、1969年に発表した『African piano』で一気に世界を震撼させた。
アブドゥーラの音楽を初めて聴いた人々は、そのスケールの大きさに打ちのめされたという。左手で執拗に繰り返されるリズムの輪廻。そしてその上で縦横無尽に繰り広げられるどこまでも自由な右手のメロディ。そのコントラストが織り成す美しさは、まるでこの世そのものである。
ありがたいことに、とある活動を通して彼には何度か会う機会があった。アブドゥーラは私にそのコントラストをnature(自然)とhuman(人間)なのだと教えてくれた。だとすれば、アブドゥーラが奏でる音楽は、畢竟私たちが生きるこの世そのものなのである。
現在81歳になるアブドゥーラの音楽は、若い頃からの「アフリカ」をモチーフにしたそれと首尾一貫している。大雑把な言い方をしてしまえば、若い頃のアブドゥーラと、現在のアブドゥーラは同じことをずっと言い続けている。自身の音楽を通じて。
しかし、その表現の方法は変わっているというのが私の印象だ。取り分け、この10年ほど、アブドゥーラは確固たる「自分の音色」を獲得し、それによって自らの音楽を構成している。その分岐点になったアルバムがこの『SENZO』である、と私は感じている。
かつて攻撃的なサウンドで人間の怒りや苦しみまでをも表現した若いアブドゥーラが、歳を経るにしたがって慈しみ深い深遠なサウンドで人の瑕疵を包み込むようになってきた。そして、その変化の中にあってずっと言い続けていることの一つが、「生きてていいんだよ」ということなのだ。
つらいことや悲しいことがあった時に、どこにも逃げ場所が見つからない時に、是非このアブドゥーラの音楽を聴いてもらいたい。そこには、何よりも暖かい大地の、そして人間の息吹が収められている。
アブドゥーラの音楽と、そしてアブドゥーラ・イブラヒム自身と出会えたことは、私の人生においても非常に重要なことである。
大丈夫。生きていて良い。
『SENZO』/Abdullah Ibrahim
リリース:2008年
01. Ocean & the River
02. In the Evening
03. Blues for Bea
04. Prelude for Coltrane
05. Aspen
06. Blues for a Hip King
07. Third Line Samba
08. Tookah
09. Pula
10. For Coltrane
11. Dust
12. Corridors Radiant
13. Jabulani
14. Dust(reprise)
15. Nisa
16. ‘Senzo’- Contours and Time
17. Meditation / Mummy
18. Banyana, Children of Africa
19. Mamma
20. Blues Bolero
21. In a sentimental Mood
22. Ocean & the River
(amazonページはこちら)
http://www.amazon.co.jp/Senzo-Abdullah-Ibrahim/dp/B001P5Q6L6
(執筆者プロフィール)
福島剛/ジャズピアニスト
1979年東京都出身。青春時代のすべてを柔道に捧げた後、京都府立大学在学中の20歳の頃よりピアノを始める。故・市川修氏に師事。2006年より「ボク、ピアノ弾けます」という嘘とハッタリによりプロの音楽家となる。プロとしての初めての仕事は故・ジョニー大倉氏のバンド。07年、活動の拠点を地元、東京江戸川区に移す。各地でのライブ、レコーディング、レッスン、プロ野球(広島カープ)観戦、魚釣り、飲酒などで多忙な日々を送る。
主なアルバム作品に映画作品のサウンドトラック『まだあくるよに』(2012年 ※iTunesの配信のみ)、お笑いジャズピアノトリオ「タケシーズ」による『みんなのジャズ』(2013)、初のソロピアノアルバム『Self Expression』(2015)がある。座右の銘は「ダイジョーブ」。
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