最近、開成学園の中学高校の校長である柳沢幸雄さんの教育論が、あちこちで反響を呼んでいるので、とても気になって見ております。
「勉強しなさい!」を言ってはいけない…開成・柳沢校長の教育論
都内進学校校長ロングインタビュー 【開成中/高】 柳沢幸雄 #1「グローバル化が喧伝されるのは、未来が輝いていない時代だから」
私は1973年のベビーブーム生まれ、中学受験を経験しているわけですけれども、そのときは同学年に子どもの数が多すぎて猛烈な受験戦争の渦中にありましたが、お陰様で受験に向いた頭脳と性格をしていたためか、開成、慶応中等部をはじめ各校の合格を頂戴して、激しい受験勉強の反動で凄まじい反抗期を迎えいまに至ります。
で、私の小学校時代を振り返れば、教育熱心な父と母から「勉強しろ」と毎朝毎晩言われ、週6日塾に通いつめ、休みの日も朝から晩まで記憶教科の詰め込みをしてなおぐんぐん学力を伸ばし、受験には成功しました。
また、そのころついた「勉強をする」という習慣のお陰で、46歳になったいまなお何か知らないことを学んだり、何かを考えたりすることが苦ではなく、教育とは人が生きていくためのスキルを得るための修練という機能もあるという意味からすれば、私にとってはその人生において確かに価値のあるものでした。
しかしながら、いま思えばあのころの受験戦争とは何だったのだろうという気持ちもなくはありません。例えば、その当時はトップの塾は四谷大塚だったのですが、あのときに一番上位のクラスである栄光の「中野国立一組」で成績の上位をお互いに競い合った同学年の友人たちは、確かに受験には成功し、各々の道を歩んでいったのですが、その後本当の意味で大成して凄い研究者になったとか、偉い企業家になったとか、素晴らしい立派な職業に就いているのかと言われると、あまりパッとしないよなあという印象はあります。
また、あれだけ狭き門で、凄まじい倍率で小学生をセレクトし入学させた某学校に関して言えば、同級生横並びで見ると親の資産は別として一番稼いでいる部類は私含めて数人であり、それ以外は「あれだけの英俊だったのに」という奴らがたいした仕事をしていないという現実があります。
あの熾烈な受験戦争は何だったのか、思い返すにいまだ良く分かりません。もちろん、開成や灘高から東京大学や京都大学に進学した人たちは、文字通り日本のトップエリートですから然るべきところで立派に日本社会を支えているのでしょうが、とはいえそういう胸を張れる仕事をしている人たちは必ずしも全員ではなく、彼らにはもうちょっと輝かしい違う人生があったんじゃないかと思ったりもするのです。
山本家で言えば、毎日「勉強しろ」と言われ続け、宿題をやらなかったり出来が悪かったり進みが遅かったりすると塾の先生から学校の担任、酔っ払った親父にまで、日々殴られていました。比喩ではなく、やる気が見られないと「やる気がないなら受験を辞めろ」と殴られるわけです。当時は体罰が当たり前の時代で、教諭や専科の教員にビンタを張られて壁にぶつかってダブルで痛いとか、宿題を忘れた人はモップの上に10分間正座をさせられたりしていました。懐かしい。
それでも私は勉強ができたので、学校や家庭や塾で怒られても「でも、俺は勉強ができるから」という謎の自信に包まれて心が折れることはありませんでした。受験が終わったら一気に解放されてしまって目標を見失い大規模反抗期の到来とともに衝動的で暴力的な出来の悪い少年になり下がってしまうわけですけれども、じゃああのまま開成に入って東京大学文Ⅰにでも進み、官僚になったりしたら、たぶんパワハラ上司として告発されるかノーパンしゃぶしゃぶでも行って晒しものにされるかという人生だったんじゃないか、と思います。
その意味でも、勉強しろというのは子どもにとって最高のプレッシャーになるのですが、しかし、勉強しろと言わないと、子どもは一向に勉強しません。ソースは拙宅の息子たち。柳沢先生の主張通り、確かにやりたいことはやるし、親が舌を巻くほど専門的な知識を得て、場合によってはネットに飛び出して専門家や他の大学の教授と平然と交流していたりする。これは凄い。ただ、それだけやっていていいのか、という問題に直面します。
例えば、模試の点数。いいときはいいけど、悪いときは悪い。成績は努力の結果に対して正直なのです。他の興味に気を取られてまったく勉強しないで模試に臨むと、ちょっと私が現役の中学受験のときには取ったことのないような壊滅的な点数を取って帰ってきます。成績表の結果を見て、親である私が真っ青になるような点数を見たとき「ああ、人様との競争で中学受験をするとき、このような『やりたいことをやらせる』ような小学校時代の送り方では受験戦争という競争には勝てないのだ」と悟るのです。
そして、奇しくも、そういう受験戦争の終着点こそ大学受験の結果であり、その大学受験の結果をきちんと出そうとすると開成や麻布、筑駒、灘高、ラサールなどの一線級の中学校の門を叩くのが近道だという結論に達します。柳沢先生が「勉強しろと言うな」と言われても、やりたくない分野の勉強もしっかりやって、点数を取らなければ柳沢先生が校長をしている開成中学には合格しないのですよ。
あるいは、黙っていても偏差値75以上を取るような、一を聞いて十を知るような子どもだけが開成中学に入れるのだ、彼らには「勉強しろ」と言わなくても自発的にそういう点数を取ってくるのだ、と言われると、柳沢先生の教育論は少なくとも拙宅山本家の子どもたちや、他の大多数の受験生にとって堕落の媚薬にしかならないのでしょう。だって、勉強しないで実力のみで模試に臨むと、本当にすさまじく駄目な点数を取って帰ってくるんですよ。
仮に開成中学の過去問をベースに「これがある程度きちんと解けるようなレベルにまで我が子をもっていこう」としたとき、例えば拙宅山本家長男ならば、算数は図形問題のみ、四教科で言えば理科はガッツリ勝ちに行けるかもしれませんが、それ以外はまだまだ稽古不足です。決して頭の悪い男ではないから、勉強すればこのぐらいはいけるはずだ、という期待感も込めて日々を過ごしていますが、やっぱり放置していると勉強しない。
意識付けをすれば勉強するんだろうかと思い、二か月にわたって行動の良いところを誉め、成績の芳しい部分で悦び、良い中学に入ればきっとお前のやりたい学問ができる大学に行きやすくなるからと諭して自覚を促します。瞬間瞬間、目に見えて嬉しそうになる兄弟。
しかし、勉強はせず。お前らなあ。ひたすら顕微鏡を見たり、科学マンガのサバイバルシリーズを読み耽るなどして、苦手教科に手を付けようとしません。親として、気を揉む瞬間です。好きなことなんだから、どんどんやらせればいいという気持ちと、そうは言っても受験は総合力なのだから苦手教科と言えども最低限意欲的に取り組んでほしいという願いとが交錯するわけであります。
もちろん、長男は小学4年、次男は小学3年、三男は今年意中の小学校に合格を決めたばかりですから、焦る必要はない… と思いつつ、苦手教科でどうしようもない点数を取ってくると、つい口を出したくなります。
私も小学校のころは、算数は抜群の点数を取り、理科と社会は興味があったのでどんどん暗記して毎週ある四谷大塚のテストは鼻歌気分でほぼ満点を取り続けてはいました。一番問題だったのは国語で、漢字や慣用句などは覚えれば済むので点は取れるのですが、長文を読んで、この登場人物は起きた事象についてどう思ったでしょうという問題で全滅しておりました。俺はそいつじゃないんだから、行動ひとつ一行書かれたところで心情なんて読み解けるわけがないだろ。そう思っておりました。
で、それを打開したのは、学校で唯一私を殴らなかった理科の専科だった三輪先生が、ふと実験で、水槽に落ちた昆虫が、這い上がろうとしてじたばたしているのを私が眺めていたときに言った言葉でした。「虫も生きてるから、生き延びようと思って必死に水から出ようとしているんだよ」
そうか。生き延びたいから虫はじたばたしているのか。
大人になったいま思えば、この三輪先生の34年前の言葉はやや間違いで、あくまで昆虫は水に対する反射としてもがいているのであって、生き延びたいという感情など実はないことを知るわけですけれども、国語の長文問題で登場人物が感じた事柄をひとつの行動の描写から読み取るというのはそういうことなのだと、理科の授業から学び取り、道が開けていきました。
その後も国語算数理科社会の中では国語の点数は相対的に悪かったのですが、以前のような苦手意識は無くなり、いまではこうやって人様にモノを読んでいただく文章を書いたり、小説や小説の設定を作ったりという仕事を難なくやるようになったのは、受験戦争を真剣に生き抜いてきたことがバックボーンにあると思っています。
そういう気づきをしてほしいからこそ、親として我が子に「勉強しろ」とつい言ってしまうし、勉強しなければ当然のように成績は悪くなるし、成績が悪ければより良い環境を目指す中学受験どころではなく、良い環境が無ければ望む大学には入れず、望む大学にいればやりたい研究や得たい知識、体験を共有できる友人に巡り合える機械も増えるのではないかと思うと、どうしても「勉強しろ」が大事なんじゃないかと思うんですよね。
末筆になりますが、以前ボツになった原稿で「なぜ人は勉強しなければならないか」という論争に対する内容がありまして、結論から言えば「生きた証を打ち立てるため」です。この時代に生きたということをしっかりと実感し、自分が何を知り、何を使って生きたかを審判のときに説明できなければならないのです。回りのことを知り、環境と自分の関係をしっかりと知ることで、自分が生きる手掛かりが見つかります。学歴がスキルを保証するわけではないのですが、学歴は知ったことを表す目安であり、学歴のある環境は志をある程度同じくする人たちの集まりである以上、より物事を知るための通過点として、人はいま以上に常に学んでいかなければならないのだと思っています。
確かに、親や教師から「勉強しろ」と言われれば、やる気がそがれるのは事実でしょう。ただ、現状では抜群に理科ができても中学受験で開成の試験には合格しないんですよ。子どもが「そうか、中学受験で勝つためには国語算数理科社会すべてにおいて一定以上の高いレベルで問題を解くことができなければ、一流の環境には入れないんだ」って気づかないとスタートラインに立てないものなのでしょうか。
そういう中学受験だから、人によっては中学受験が人生のピークになってしまったり、中学受験に成功してもその後うだつが上がらない人生を送る原因になるのではないのかな、と思います。やはり、開成という放っておいてもできる子が勝手に集まる環境から見る教育論は、時として残酷な受験の状況を正当化するようなきれいごとにならざるを得ないのではないか、本当に好きな勉強に子どもが没頭することを良しとするのならば、なおのこと4教科すべてで高いパフォーマンスを求めるような中学受験ではなく一芸でもしっかりとした意欲と学識を持つ子どもを選抜したほうがその理想の出口としては近いんじゃないのかといつも考えます。
そんなことを考えながら、日々、育児に奔走しているのですが。
やまもといちろうメールマガジン「人間迷路」
Vol.280 理想の教育論で大いに悩みつつ、Hagexさん刺殺事件や新興決済サービスについて思うことを語る回
2019年11月29日発行号 目次
【0. 序文】開成中高校長「『勉強しなさい』を言ってはいけない」教育論の波紋
【1. インシデント1】Hagexさん刺殺事件とはてな社の責任について(雑感)
【2. インシデント2】新興決済サービスを巡るあれこれについて思うことなど
【3. 迷子問答】迷路で迷っている者同士のQ&A
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