※高城未来研究所【Future Report】Vol.759(2026年1月2日)より

新年あけましておめでとうございます。
今週は、チェンマイにいます。
デジタルノマドの聖地ニマンヘミン周辺のカフェに出向くと、周りはほぼ全員がMacBookを広げた、場所にとらわれずに働く新しい階級の「ラップトップ・クラス」ばかり。どのテーブルからもZoomの声か、キーボードの打鍵音が、まるでBGMのように聞こえてきます。ここ数年でこの街は「バックパッカーの終着駅」から「デジタルノマドのハブ」へと上手く衣替えしたのを実感します。
近年、チェンマイは世界のデジタルノマド調査の中で「長期滞在リモートワーカーが作るローカル経済の好例」として頻繁に取り上げられるようになりました。特にニマンヘミン一帯には数十単位のコワーキングと「ノマド向けカフェ」が密集し、家賃・食費・通信環境のバランスの良さから、長期滞在者がコミュニティを作りやすい都市として位置づけられています。
その理由は、コワーキングスペースや「作業向きカフェ」が徒歩圏に多数存在すること、カフェのWiFi速度は欧州の中規模都市を上回り、気候がいいこと、夜はナイトマーケットやローカル屋台で安価に外食できるため「生活コストを抑えつつ事業に集中できる街」として口コミが拡散したことなどが挙げられていますが、何より、世界中の人たちが集まるデジタルノマドコミュニティの熱気が、その根本的要因にあると感じます。
現在、世界全体のデジタルノマド人口は、世界最大都市圏と言われる東京、埼玉、千葉、神奈川を超える4000万人規模と推計されています。なかでも、チェンマイは、「大量観光」ではなく「長期滞在者」の比率が高いエリアとして注目され、カフェ・アパート・バイクレンタルを中心に、「ノマド経済圏」が急速に拡大しました。
ただ、こうしたリモートワーカーの波は、ある意味でここ数十年続いてきた「放浪者のタイ史」の最新版に過ぎません。
1970年代以降、タイはインド〜ネパールを回遊するヒッピールートの分岐点として、欧米バックパッカーの「冬の避難地」になり、その延長線上にカオサンロードやパンガン島のフルムーンパーティ文化が育ってきた背景があります。
2000年公開の映画『ザ・ビーチ』は、その「放浪者の楽園」イメージを世界に可視化した象徴的作品であり、レオナルド・ディカプリオ演じる主人公が、観光地化されたタイから離れ、「誰も知らないビーチ」を求めて島に渡っていく物語は、バックパッカーたちが抱いていた「オルタナティブな楽園探し」の欲望そのものを描いていました。
当時のカオサン通りは、SNSもスマホもない時代、情報のハブでした。安宿のドミトリーで、見知らぬ旅人同士がボロボロの地図を広げ、「あそこの島はまだ観光地化されていない」「あそこの国境は賄賂が必要だ」といった生情報を交換し合っていました。
何を隠そう、他ならぬ僕もその1人。求めていたのは、システムからの「切断(ディスコネクト)」で、誰にも管理されず、社会的な責任から解放され、ただ「そこにいること」だけが許される自由。映画の中でも描かれたコミュニティは、まさにそのようなユートピアの幻想でした。
あれから四半世紀が過ぎ、風景は一変しました。カオサン通りは今や観光客向けの巨大なパーティー会場となり、かつて「切断」を求めていた旅人たちは、今や24時間「常時接続(フルコネクト)」するためにチェンマイに集まっています。
彼らは社会から逸脱しているのではなく、社会機能をクラウド上に持ち出し、移動しながら資本主義の最前線を逃走し、かつてのバックパッカーが求めた「秘密の安息」は、現代のデジタルノマドにとっては「生産性の最大化」へと置き換わりました。タイという場所は、変わらず旅人を受け入れていますが、その文脈は「ドロップアウトの聖地」から「グローバル経済の結節点」へと、劇的なアップデートを遂げたのです。
一方、『ザ・ビーチ』のロケ地となったクラビ県ピピ・レイ島のマヤ湾は、映画公開後に観光客が一気に殺到し、1日あたり7,000〜8,000人が訪れるようになりましたが、その結果、サンゴ礁や海岸環境が大きく損なわれ、2018年には無期限閉鎖に踏み切らざるを得なくなったほど荒れてしまい、作品が批判していた「マスツーリズムの暴走」が現実化する皮肉な結末となりました。
放浪者が手書きの地図と安宿情報を交換していた時代から、いまはノマドがAirbnbとAIツールで世界を移動する時代へと移行。それでも、「寒い冬を避けて暖かい場所で、少しだけ違う自分として生きてみたい」という欲求の根っこは、ヒッピーもバックパッカーもデジタルノマドも変わっていないように見えます。
つまり、チェンマイは、かつてバンコクや南の島々が担っていた「放浪者の受け皿」の一部を、ゆるやかに引き継いだ、まだそこまで観光地化されていない山の街ともいえます。
ただし、僕にとってチェンマイが魅力的なのは、デジタルノマドではなく、実はタイ産のスペシャルティコーヒー。自著「スペシャルティ・コーヒーの未来」にも記載しましたように、この数年、タイ北部の山岳地帯で育てられるアラビカ種のスペシャルティコーヒー生産が急拡大しています。
もともとタイはロブスタ主体の生産国でしたが、麻薬撲滅と代替作物政策の流れの中で、高地の少数民族の村がアラビカ栽培に移行し、その一部がスペシャルティグレードへと進化してきました。
このクオリティーアップの背景には、海外からのノマドワーカーの尽力によるところも大変大きく、特に発酵技術に関しては目を見張るものがあります。
以前誰も知らないビーチでコミュニティーを築いていたのと同じように、今では誰も知らない山岳部にある小さな村でコーヒー栽培をしながら生計を立てる外国人長期滞在者も目立つようになりました。
興味深いのは、この「タイ・スペシャルティコーヒーブーム」が、単なる嗜好の変化ではなく、行動経済成長の指標として読める点です。所得が上がり、都市部の若年層がライフスタイルへの支出を増やすとき、その象徴としてコーヒーが出てくるのは、東西の壁が壊れたベルリンでも高度経済成長期の東京や上海でも、そしてアフリカの新興国と言われるケニアでも見られた現象でした。
バンコクやチェンマイで、1杯200バーツ(日本円で1000円程度)のシングルオリジンを当然のようにオーダーする層が育っているという事実は、実質賃金や可処分所得の統計以上に、生活実感ベースの行動経済成長を物語っています。
チェンマイ滞在中に周辺の農園を回っていると、高地の小さな集落で、20〜30代の新世代の農家たちがスマホ片手に海外の焙煎店と直接やり取りしている光景によく出会います。
彼らの関心事は、もはや「どこに出荷すれば買ってもらえるか」ではなく、「どんなプロセスを試せば、1キロあたりの単価を上げられるか」という方向に完全シフトしており、実際、タイ産スペシャルティの一部は、国内外のロースターによって貴重なマイクロロットとして扱われ、ウォッシュドだけでなく、ナチュラルやアナエロビックといった多様な精製が試されるようになりました。その結果、タイのコーヒー輸出のうち、焙煎豆やプレミアム区分の比率がじわりと高まり、単価ベースでの成長が生まれています。
すでに高品質なコーヒーは、東京よりチェンマイのほうが高価です。
世界のどこでも働けるノマドたちは、来年になれば別の国に移動してしまうかもしれません。しかし、山で土に触れている生産者と、街で焙煎機を回しているロースターたちは、少なくとも数年単位でこの土地に根ざし、タイという国の「次の10年」を、コーヒーを通じて静かに変えていくだろうと夢想します。そしてそれこそが、タイの成長物語のように感じるのです。
そう考えると、チェンマイはもはや「ノマドが集まる安くて住みやすい街」という単純なラベルでは語れません。ここには、北部の山岳地帯から都市部のカフェまでつながる、スペシャルティコーヒーのバリューチェーンが育ちつつあり、それ自体がタイの経済構造と生活感覚の変化を映す鏡になっています。
20年前、『ザ・ビーチ』が描いたのは、バックパッカーが求めた「誰も知らない楽園」でした。2020年代のチェンマイで静かに進行しているのは、山の上の小さな農園と、街角の焙煎所と、カウンター越しの一杯のフィルターが紡ぎ出す、「誰かが丁寧に育てた、顔の見える最高の一杯」という別種の楽園です。その意味で、チェンマイはノマドにとってのハブであると同時に、タイ産スペシャルティコーヒーという、新しい物語のスタート地点でもあるのです。
この街に来るたびに思うのは、ラップトップを開く以前に、まずカップの中の液体を通じて「この国の未来」をテイスティングしている、そんな奇妙な感覚を覚えます。
タイの山岳地帯の発展は、これからです!
どうか皆様、本年もよろしくお願いいたします。
高城未来研究所「Future Report」
Vol.759 2026年1月2日発行
■目次
1. 近況
2. 世界の俯瞰図
3. デュアルライフ、ハイパーノマドのススメ
4. 「病」との対話
5. 大ビジュアルコミュニケーション時代を生き抜く方法
6. Q&Aコーナー
7. 連載のお知らせ
高城未来研究所は、近未来を読み解く総合研究所です。実際に海外を飛び回って現場を見てまわる僕を中心に、世界情勢や経済だけではなく、移住や海外就職のプロフェッショナルなど、多岐にわたる多くの研究員が、企業と個人を顧客に未来を個別にコンサルティングをしていきます。毎週お届けする「FutureReport」は、この研究所の定期レポートで、今後世界はどのように変わっていくのか、そして、何に気をつけ、何をしなくてはいけないのか、をマスでは発言できない私見と俯瞰的視座をあわせてお届けします。
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