造形そのものが思想になる
様々に対立する項を、概念的に統合しようとする形而上学ではなく、相矛盾しあう項を、現にそこにある「造形」としてひとつの調和のもとに統合してしまおうという方法――私はただひたすら観音様の前に立ち尽くしながら、経典や教義や理論がなくとも、造形そのものが思想になりうるのだ、ということをはじめて実感したような気がした。
そもそも、造形や形象に、そこに刻印された生命力や人間精神の構造を見出していくというのは、西洋が昔から得意とする技法だった。ヘーゲルは人間が作り出した文化を「客観化された精神」と考え、精神が形をとって現れたものこそが文化であると考えた。またディルタイは、文化は生命の表現であると見て、この表現されたものを通じて生命そのものを理解していくことが、精神史の課題なのだと高らかに宣言した。アンドレ・ルロワ=グーランのように、生命力の表出としての原初的な「身ぶり」の延長線上に言語の発生と進化を描いてみせようとする仕事もあった(『身ぶりと言葉』)。ヴェルフリンは同じ方法でルネサンス様式からバロック様式への変遷を人間精神の発展の帰結として説明したし、ヴォリンガーもまたこの方法で東洋と西洋の芸術の様式を区別してみせた。生命の身体という形象に「記憶」を見出した三木成夫にもまた同じ方法を見ることができるかもしれない(『胎児の世界―人類の生命記憶
(中公新書 (691))』)。
とにかく、宗教や芸術や学問の中に「客観化された精神」を見出し、「表現された生命」を探り当てていく方法は、ヨーロッパ文化史における常套手段だったのである。ところが、仏像に関してそれをやる、つまり、仏像の形の中に心の様式を探り、生命の在り方を探ろうという試みはそれまでになかった。ならば、それをやってみようじゃないか、というのが本書『仏像―心とかたち』の「たくらみ」である。
その他の記事
|
持たざるもの、という人生(小寺信良) |
|
減る少年事件、減る凶悪事件が導く監視社会ってどうなんですかね(やまもといちろう) |
|
選挙だなあ(やまもといちろう) |
|
宇野常寛が考える”社会と個人”を繋ぐ新しい回路とは(宇野常寛) |
|
東京オリンピックを痛快に破壊 ――アナウンサー吉田尚記は なぜ”テロ計画” を考える?(宇野常寛) |
|
古都には似つかわしくない最先端の「現代日本語」講座(高城剛) |
|
ドーパミン中毒からの脱却をめざして(高城剛) |
|
柔らかい養殖うなぎが美味しい季節(高城剛) |
|
歴史が教えてくれる気候変動とパンデミックの関係(高城剛) |
|
iPad「セカンドディスプレイ化」の決定版?! 「Luna Display」(西田宗千佳) |
|
大観光時代の終焉(高城剛) |
|
スープストックトーキョーの騒ぎと嫌われ美人女子の一生(やまもといちろう) |
|
今週の動画「切込入身」(甲野善紀) |
|
今週の動画「顔面へのジャブへの対応」(甲野善紀) |
|
京都で実感した宗教を超える文化のグローバリゼーション(高城剛) |











