警察官の剣道や柔道は本来の職務につながっていない
小田嶋:とはいえ、スポーツとして、生死を賭けずに勝負を決めるには、ある程度ルールを決めねばならないわけで…。
甲野:それはそうです。ただ、そうして武道が競技化していく中でも、武術の感覚を取り入れて技そのものの質を根本的に転換することは出来たはずです。
たとえば50年ほど前の話ですが、国井善弥(道之)鹿島神流十八代師範などは、剣道の当時一流の人達から相撲の双葉山その他、柔道、ボクシング等、さまざまな武道・格闘技の人と立ち合い、それぞれのルールの範囲で圧倒的な実力を示しています。
ですが、今の柔道界、剣道界では稽古法・トレーニング法も一般のスポーツに引っ張られてしまい、そういう精妙な技の世界を目指そうという動きは、全く見られません。「そういうことは自分たちとは関係のない世界の出来事だ」と、見ないようにしているんです。
小田嶋:柔道なら柔道の世界がすべてなんだ、専門家でもないのに首を突っ込むな、と。それで、今の柔道は、柔道着の襟の掴み合いばかりやっているように見えるんですかね。
甲野:さきほど柔道の指導者が、とにかく「掴め」という話をしていると言いましたが、武術の世界においては「掴む」というのは、だいたい素人のすることです。
小田嶋:え? そうなんですか?
甲野:掴むとどうしても腕の付け根が浮いてきて、体幹(編注:この場合は胸から腹にかけての体の中心部にある筋肉を指す)から離れてくるんですね。ですから体幹の力を腕にそのまま伝えられなくなる。
先ほど例に挙げた国井師範なども、柔術では掴まない方法を修行させられたエピソードが残っています。それに、武術の感覚で言えば、相手が刃物を持っていた場合、うっかり掴みにいったら、腹を刺される危険性が大きいのです。
小田嶋:ああ、そりゃそうですね。
甲野:警察官が柔道、剣道をやるのは、本来は犯人逮捕のためですよね。しかし、警察で逮捕術の師範をしている人たちは、単に競技としての剣道、柔道のトップでしかなく、逮捕術について何も知らないという事を私の知り合いの警察官に聞いて驚きました。そのせいでしょう、柔道で腕に覚えのある警官が、現場では刺されてしまうということがしばしば起きるようです。
剣道についても同じです。例えば木刀を持って剣道の「正眼の構え」をしても、覚せい剤などで痛覚が麻痺した相手に木刀を掴まれて引き寄せられ、やはり刺されてしまうようなことが起こる。
小田嶋:手に取りやすい場所に、木刀を差し出してやるようなものなんだ。
甲野:ですから、ルール無しの現場で戦闘する場合には、棒や木刀などを下段に落とし、相手に奪われない構えから自在に使えるようにする必要があるのです。しかし、現在の警察の剣道では、まるでそうした際の訓練はしていないようです。考えてみれば、これはとてもおかしな事ですよね。
小田嶋:うーむ。
甲野:警察官が柔道や剣道の全日本の大会で優勝したとか、そんなことは国民にしたらどうだっていいんです。犯罪者をちゃんと取り押さえてくれる、そういう警察官を望んでいる筈ですから。