ここに、この往復書簡を読んで下さる方々の御参考のためにも、その部分を抜粋して引用してみたいと思います。
千葉立造という医者は、はじめ岩佐純の代診として、鐡舟の診察に来ていたのであるが、いかにも素朴で、愛すべき人物であった。鐡舟ははじめ五六年の間は、診察のこと以外、ほかの話はしたこともなかったが、或る日突然、千葉にむかって、妙なことを言いだした。
「千葉さん、あんたは医者ですね」
「そうです」
「すると、病を診ることはできますね」
「これでも、応分の診断を下してるつもりです」
「では診察のとき、患者は見えますか。あなたのからだがありますか」鐡舟があまり妙なことばかり言うので、千葉がすこし旋毛を曲げて、
「自分がなかったり、患者がみえなかったりした日には、第一診察ができないじゃありませんか」
と言うと、鐡舟は何と思ったか、
「これは可笑しい。そんなことで、よく平気で医者をしておられますね。あはは」
無遠慮に大声で笑いだした。
「先生、何が可笑しいんですか」
「何が可笑しいかって、あんたは一体、鞍上人なく鞍下馬なしという言葉を知っていますか」
「聞いたことはあります」
「これは馬術の奥義ですが、その他の武道だって、医術だって、結局は同じですよ。それがわからぬ医術は、盲目の手探りと同然です。あんたのような人に、ほんとうに病気が診られるはずがない。いっそ明日から、お医者を止めたらどうです」正直一途の千葉は、思わずむっとした。鐡舟がどんなにえらいか知らんが、医道においては門外漢にすぎぬ。その素人の鐡舟に、こうまで罵倒されたのであるから、怒り心頭に発したが、待てしばし、一つ、その理を究めて、無礼千万な鐡舟の鼻をあかしてやろう。よし、その理に達せぬうちは、生きて再びこの人に会わないぞと、口惜しまぎれに決心した。そしてつとめて平静な態度を保ちながら、
「それでは、先生、何かその理のわかる法があるでしょうか」
と訊いた。すると鐡舟は、まるで人を馬鹿にしたような口調で、
「その法は勿論ありますよ。だが、あんたにはとても、それを究めるだけの気根はありますまい。いらんことは聞かん方がよろしい」
ますます罵倒を加えるので、さすがの千葉も顔色を変えた。
「だからといって、同じ人間であるのに、他人のできることが、できないはずはありますまい」
「そのはずはないのだが、あんた本当にやって見る気がありますか」
「やります。断じてやってお目にかけます」
「それでは試しに、『宇宙に双日なし。乾坤ただ一人』というのを工夫してごらんなさい。但しこの工夫をするには、寝ても醒めても、下腹に力を入れて、寝食は勿論、心身も忘れるほどに骨折らねば駄目ですぞ」ここに千葉立造は発奮して、この公案と取っ組むこと一ヶ月、一心というものは恐ろしいもので、はやくも乾坤ただ一人を透徹した。
「えらいッ、白痴の一念で、到頭やりましたね。しかし今度のは難しいですよ。前の問題の幾層倍も骨を折らねばなりませんよ」
と、今度は『既今上人性何処にありや』の公案をあたえた。さあこうなると、千葉は命がけである。あんまり下腹に力を入れすぎて、到頭脱腸を踏み出してしまった。しかし、千葉は怯まなかった。たとえ腹が破れて死んでも、いまさら後には退かれぬと、晒木綿で腹巻をしたまま猛然と工夫に突進した。ために千葉の透徹の速かなこと、さすがの鐡舟も、その俊発に舌をまくほどであった。そこで千葉は、はじめて脱腸のことを鐡舟に明かし、
「私は危うく先生に一命を奪われるところでしたよ」
といって笑った。鐡舟も、
「あはは、あんたは実にうまく引っかかったが、なかなかああは引っかからんもんですよ」
と、ここにはじめて、先に与えた問題が、すべて禅道の公案であることを明かしたのであった。
三遊亭圓朝は、落語家としては、不世出の名人といわれ、その至芸はいまも語り伝えられているが、或る日鐡舟は、この圓朝にむかって、
「お前、話がうまいそうだが、今日は一つ、子供も多いことだから、桃太郎の話をしてくれ」
と註文した。さすがに鐡舟らしい註文であった。一寸みると、人を小馬鹿にしたような註文であったが、圓朝は、ここぞ腕の見せどころと、縒りをかけて桃太郎を一席伺った。さすがは一代の名人、聴く人はみな感服せざるはなかったが、ただ一人鐡舟は、
「なるほどうまいもんだ。だが、惜しいかな、お前はまだ舌で話しているな。肝腎の桃太郎が生きてこない」
と、ぶっきら棒に言った。
この鐡舟の無遠慮な批判は、名人かたぎの圓朝の胸にどきんときた。高座での評判はますますよく、喝采の声はいよいよ高くなったが、しかし圓朝の不安はそれ以来、日にまして深くなった。これでいいのか。舌で話さないで、何で話すのだろう。
到頭圓朝は、たまりかねて、その苦悶を鐡舟に訴えた。すると鐡舟は、それには禅をやるよりほかはないと教えた。
「いまの芸人は、すこし世間から喝采をうければ、すぐ自惚れてしまうが、昔の人はしじゅう自分の芸を、自分の本心に問うて修行したものだ。役者が身をなくし、剣術つかいが剣をなくし、落語家が舌をなくさなくちゃ、本当の名人になれぬ」
さすがは圓朝、鐡舟のいう言葉の意味が、はっきりと解った。
「先生、それではどうか、私にも禅を教えて下さい」
「感心な心がけだ。よし、教えてやろう。こちらに来なさい」
「では、いづれ家の方の都合をつけまして」
「駄目だ。禅というものは、やるとなったら、万事を放擲してかからなくちゃいかん。これからすぐ始めるんだ」
圓朝は、無理やりに二階の一室に連れこまれ、屏風で囲われてしまった。大小便のほかは、一歩も二階から出ることを禁ぜられ、三度の食事も下から女中がはこんで来た。圓朝の家では、師匠がいつまでも帰って来ないので、何か不調法でもあったのかと詫びて、師匠を帰してくださいと嘆願した。寄席では無断で休まれては困ると、大へんな剣幕で掛合に来た。だが、鐡舟はてんで受け付けない。圓朝は閉口して、泣っ面をしたが、鐡舟がいっしょに坐って、怖い顔でにらみつけているので、身動きもできなかった。
「ままよ、どうにでもなれ」
捨身で精進をつづけたおかげで、圓朝はわづか一週間ばかりのうちに、豁然と悟るところがあった。そこで鐡舟は、再び圓朝に、桃太郎の話をさせたが、それはすでに前日の比ではなかった。
「えらい、今日の桃太郎は生きている」
それからのち圓朝の芸は、まったく生まれ変わったようになり、本当の名人境に入ることができた。
そこで鐡舟は滴水禅師とも相談の上、圓朝に無舌居士の号を与えた。
(引用終わります。なお引用に当たっては、全てではありませんが旧漢字は当用漢字に、旧かなづかいは現代かなづかいに改めました)
この『山岡鐡舟』の本によって、私の中に禅に対する関心が、決定的に芽生えたのです。そして、その後何冊もの禅に関する本を読むようになり、私がこのメールマガジンの「虎落笛」でも紹介した、無影心月流の流祖、梅路見鸞老師を知る事となった中西政次著『弓と禅』をはじめ、整体協会の野口晴哉先生の禅に関するエッセイなどにも強く惹きつけられていったのです。
私が武術を始めた動機は「人間にとっての自然とは何か」「運命は完璧に決まっていて、同時に完璧に自由である」という事を体感を通して実感したい! という事だったのですが、この『山岡鐡舟』で禅と剣に対する関心が掻き立てられていなかったら、自分を見つめ直すキッカケになった、現代栄養学や農業の在り方への疑問が武術の方向へは向かなかったかもしれません。
まだまだ書きたい事は山積していますが、かなりの字数になりましたので、今回はここまでとして、田口さんには、前回の続きを、お話し頂きたいと思います。
※この記事は甲野善紀メールマガジン「風の先、風の跡――ある武術研究者の日々の気づき」 2012年03月05日 Vol.023 に掲載された記事を編集・再録したものです。
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