あしたは本命中学の受験日が集まる2月1日ということで、近所の塾では受験を控えた小学生が小さな身体を震わせながら強風の往来を走り抜けていました。
私の中学受験の来歴はここに記したとおりです。私が自分で言うのも何ですが、「点数で測られる学力」という点では、間違いなく中学受験前の小学校6年のころがピークであったと思いますし、別にだからといって誇るわけでもなく、ただただ淡々とそういう時期もあったと振り返るぐらいの立場であります。
翻って、いまふたつの顔を私は持っておりまして、ひとつは教育技術についてモノを申す側、もうひとつは再来年には中学受験の現場に我が子を送り出す父親の側です。
いやー、これは大変だ。
極論でもなんでもなく、いまの日本の教育には良い意味でも悪い意味でも「大部屋による集団授業」と「良い大学に入ることをスコアとした、各教育機関のヒエラルキー」とで支配をされています。良い大学に行けば幸せな人生を送れるという保証は無いけれど、良い大学にいけなければ選択肢が狭くなるのが日本社会の現実である以上、確実にこれが正解だと確証はなくとも誰もが良い大学を目指します。
先日、文春オンラインに教育とは何か的な記事を書いたところ、褒められたり怒られたりしました。それもこれも、教育が私たち日本人にとってそれだけ身近なことであると同時に、学力とは何かという「学力観」が人によってバラバラで、しかもかなりの割合で皆にとって取り返しのつかないことだということでもあります。
「英語のできない英語教師」に縛られ英語ができない“身の丈”ジャパンの諸問題我が国の高等教育はどう仕切り直されるべきなのか
一義的には、いまこのメルマガを読んでいただいている人に中学校・高校に通っている人は一桁しかおられない(いないわけではないんですよw)ので、いま大学のことを語っても遠い過去のことを振り返る話でしかなく、やはり自身の大学受験や専門学校、高専といった高等教育で何をなしてきたのかはその人の経験値が大きすぎて、なかなか相対的に考えることもできなければ、他の教育機関や学部の状況すら想像もつかないというのが現実ではないかと思うのです。
そのうえ、もういくつも論考は出ていますが、私たちはおぎゃーと生まれ落ちた瞬間から、脳みその持つスペックは遺伝子によってかなり決まってしまっています。統計的には、概ね65%ほどが「学力は遺伝子によって決まっている部分」であるとされ、また、物事の理解や推理を司るスーパー遺伝子の特定と共に私たちが長年培ってきた「文系と理系」「左脳と右脳」などの概念は嘘っぱちの虚構だったことが明らかになってしまいました。いわば、数学が得意な人は遺伝的に本来国語も得意であり、理系と文系の差というのは能力の違いではなく趣味・興味の対象にすぎないということまで分かってきています。
逆に、これらの中学受験は算数国語理科社会、主だった四教科を司る遺伝的特性は知能指数(FSIQ)の中でもワーキングメモリーと言われる処理能力の高い低いで決まる部分が大きいとされています。つまり、推理能力や空間認識能力など複数あるIQのサブカテゴリ―は必ずしも中学受験の学力とは連動せず、必然的に、ワーキングメモリーはそこそこだけど他の能力に秀でた子どもは中学受験でスポイルされていく方向に動くのです。
いまや子どもに一人一台PCが配られ、STEAM教育、アクティブラーニングにプログラミング教育といったワードが叫ばれる中で、データ資本主義がもたらした福音はそもそも「その子ども一人ひとりにあった教育の在り方を、人工知能やクラウドを通して実現できるはずだ」という大前提に立ちます。しかしながら、いまの学校教育の現場の大変さは良く周知されていつつも、そこにプログラミング教育を教師にやらせよう、参加型授業のファシリテートも教師に、と言われてもパンクするわけです。
そして、昔は知的な職業として尊敬され、狭き門であった教師も、ブラックな職場に少子化での職場の減少と共に不人気な職種となって、かつては5倍近くを誇っていた教員免許試験も、いまではほぼ1倍ちょっと、希望すれば誰でもなれる職業になってしまいました。いまの教師が能力的に低いというつもりはありませんが、時代の流れが学校の教育現場に求める内容をどんどん変えていってしまうため、現場は疲弊するだけでなく教育の質を引き上げることもまたなかなか大変なのです。
私たちの学力観は、これを学べば大人になったときに独りでしっかりと生きていける術を身に着けることであり、教育ジャーナリストの太田敏正さんが説明する思考コードに見合った子どもの「考える力」をどう身に着けさせるのかが求められています。これらは、決して画一的な教育で身につくものではなく、詰め込み型教育だけでは成立しない分野であることは間違いありません。知識を習得し、筆算をしっかりできるようにするという反復を伴う詰め込み型教育の良さも充分に理解しながら、その知ったことや、使える知識、ツールを活用して、いま目の前にある問題をどう解決していくのか、あるいは、これは問題だと自ら探求し解決していくことが求められることになります。
しかしながら、いまの教育の現場で適用されていくであろう人工知能(AI)は概ねにおいてどの教育ベンダーも「より効率的に詰め込むために」または「教育の内容を細分化し、できない部分を見つけてそこを反復させて習熟させるために」使われている、というのが現状です。確かに、それであればセンター試験で良い点を取る、PISAで他国に負けない教育を実現するということはできるかもしれません。
でも、それは子どもたちが生きていくための術を身に着けさせるという点で、本当に効果的なのでしょうか。教科書がデジタル化されたり、一人一台PCが配られるというハード面が充実するのは良いとして、しかし学校教育が目指すべき先が一発勝負の大学受験で良い大学、良い学部に通うことを目的にしてしまうのであれば、何のためのデータ活用であり、その子どもたち一人ひとりにあった教育になるものなのか、分からなくなってしまうのです。
もともとは、明治以前から寺子屋文化があり、手習いをする子どもたちを大部屋に集めて画一的な勉強をすることで基礎的な学力をつけてきたのが我が国の伝統でした。それは、我が国の富国強兵策を大きく助けたものの、結果として無謀な戦争に突き進ませる、自己反省の乏しい国家指導部を作ることに直結させてしまったのは残念なことです。また、戦後は産業界の要望もあり、また、日教組と文科省の対立などもあって、輸出立国日本を支える均一で協調的な日本人を社会に送り出す機能としての教育制度がどんどん推し進められてきました。寺子屋然とした一斉に集っての教育も、協調性と詰め込み重視の大学も、いっとき、我が国の国威高揚、社会や産業の発展には寄与したものの、やはり時代が変わってくればそれに対応しなければなりません。
そういう戦後成長の慣性の中にいる我が国の教育の仕組みは、本当にこれからの日本社会を生き抜く子どもたちのためになっているのか、本当に悩むところは大きいのです。知れば知るほどに、うちの子どもは国公立医学部を目指させたいと思う親や、何は差し措いてもまずは東京大学、京都大学に入れたいという親の話をたくさん聞くと、いや、お気持ちはよく分かりますけれどもそれは本当にあなたのお子さんのためになるのでしょうか、と言いたくなる気持ちをグッとこらえながら、いろんな調査研究に従事している毎日です。
やまもといちろうメールマガジン「人間迷路」
Vol.287 教育問題のむつかしさを憂えつつ、コロナウイルス騒動に翻弄される地方経済やプライバシーと国家安全保証のバランスを考える回
2020年1月31日発行号 目次
【0. 序文】中学受験に思う
【1. インシデント1】コロナウイルスで春節特需死亡につき、我が国の地方経済で大逆回転発生の巻
【2. インシデント2】個人のプライバシーと国家安全保証のバランスがむつかしい時代
【3. 迷子問答】迷路で迷っている者同士のQ&A
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