世の中の進歩をそのまま容認することは是なのか
さて、魯の国に帰って来た子貢は、さっそく師の孔子に今回自分が出会った老人のことを報告します。すると孔子は「その老人は、かの渾沌氏の術、つまりその思想を少し生齧りした者に過ぎないよ。彼はその一部は知っているが、そう深くは知らない。自分の内側を治めても、その外の世界と自分との関係がよく分かっていない。純粋に本質に入れば、人為を無くし、本来の素朴な世界に帰り、すべてに通じた精妙な働きを、その心に持って、現実社会の中で自由に生きることが出来る。そういう人間に会えば、おまえはもっと驚くだろう。しかし、あの渾沌氏の術という真に根源的な道は、私とおまえのような普通の人間社会で生きる者には理解することなど出来はしないのだ」と言ったのです。
この“天地篇”の中で、孔子の言葉の形を借りて展開されているものは、ある種の道家における「大乗思想」のようなもので、よく言われる「小隠は山林に隠れ、大隠は街に隠れる」という、何と言いますか、現実の社会を肯定した上で思想を展開しようとしているものではないかと思います。(これは正確には王康琚の言葉「小隠は陸藪に隠れ、大隠は朝市に隠る」ではないかと言われています)
昔の私であれば、この“天地篇”にある孔子の解説で「ああ、そうなのか」と思ったかもしれませんが、1万2000年前に人類が農業を始めた事に対しても疑問を感じるようになった今、世の中の進歩発達をそのまま容認している者を「大隠」として、小隠の上部におくことは、あまり納得出来ません。私ならずとも、そうした解釈に納得がいかず、この“天地篇”の話に出てくる漢隠の老人の立場を正しいとしている人物も歴史上におります。
それは幕末に近い頃まで生きていた剣客で『日本剣道史』を著した山田次朗吉が「寺田白井の如きは、実に二百年来の名人として推賛の辞を惜しまぬ者であった」と称賛したうちの一人、白井亨義謙です。白井の教えを忠実に記録していた富山藩士吉田奥丞は、『天真白井流兵法譬咄留』の中で、この“天地篇”の中の老人の行為を自流の剣術の稽古と重ね合わせて、白井が次のように述べたと書いています。
「この語の如く剣術もハネツルベにて水を汲むような意識の早業にては本然の得られざる也。本然の修行は、まだるくとも井戸の水を甕にて汲むように練丹して真空を実し、赫機をもって違う也。」
ここでハッキリと白井亨は、漢陰の老人の立場を是として、大量に水が汲めて便利なハネツルベでは本当の剣の技倆は身につかない。本当の剣の修業はもどかしいようだが井戸の水を甕で汲んで畑にかけるように丹田を練り、真空(白井亨独特の剣術用語で、白井の解説によれば「真空は当流白井の流儀『天真白井流(後に“天真兵法”と名乗る)』の肝要なもので、天機と地機が交流して万物を生ずる空機-働き‐であり、言語には述べがたい真実の空という意味で真の空という」と解説しています)に心身を調和させなさい」と述べています。
また、赫機(のび)については、「早駕籠は棒先がかついでいる駕籠かきから前へ三~四尺出して走って行くものだが(早駕籠の構造というのは、そういうふうになっていたようですね)、そうすると向こうから来る者は自然と避けるものであり、これは赫機と同じようなものだ」と述べ、さらに調理器具の蒸器を例に「赫機の譬へとして、蒸し物をする時、湯気が強く立つが、これは釜の下の火を強くするように燃して蒸し物をする甑(こしき)の関板に小さな穴が開いているからである。これがなかったら蒸すのに時間がかかってしまう。
また、湯桶の口から湯を注ぐ時、湯が強く跳ね出るのは、湯が沢山あるからであるが、赫機を強く利くようにするには練丹して腹の気が強くなっていて、それが太刀先から何尺も先へ出るからである。赫機の修業は腹を元として空(空機あるいは空気、さらに真空をさします)と敵とを一体として、その敵のはるか後ろまで赫機で突き抜くことをもっぱら稽古すべきである。このような単純な稽古ではすぐに上達は望めないからと、手早く上達することを願ってあせると邪道に踏み込む。それは、ちょうど湯桶から湯を出すのに、口から注ぐのを待っていられず、蓋をとって湯桶を横にしてなかの湯を一度にあけるようなものである。そんなことをすれば当然赫機は失われてしまう」と説いています。