甲野善紀
@shouseikan

「風の先、風の跡――ある武術研究者の日々の気づき」

「狭霧の彼方に」特別編 その1

ある牧師との出会い

高校時代を過ごした後、私は大学に入り、言語学を専攻しました。理由は、研究対象として、ある意味「安心」だったからだと思います。それは、言語の「中立性」によります。

言語とは「自然」と「人工」の「あいだ」にある存在です。それは「文化的」な面も持つ反面、言語自体は「人間が作り出したもの」ではなく、ある意味で「自然現象」としての面を持ち合わせています。そして、言語自体を人間が「完全にコントロール」することはできません。言語変化といった現象も、人間の意志とは関係なく起きるものです。その法則性はいまだに解明されておらず、今後どのように言語が変化していくのか、我々が完全に予測することなどできません。また言語に対しては、理系的なアプローチも文系的なアプローチも可能です。いわゆる「学際性」が非常に高いのです。

また、言語そのものには「思想」はありません。要するに、科学者であれ、宗教者であれ、右であれ左であれ、「使っている言語そのもの」は「同じ」ではないか、ということです。私にとっては対象そのものが「科学的か否か」といったことから「中立」であるということが、もの凄く「安心」だったのだと思います。また、言語学は「具体的な事実」を提示しなければ意味のない学問です。つまり、抽象的に「言語とはどのようなものか」と考えているだけでは何にもならず、論じるに値する「具体的な事実(言語現象)」を必ず提示し、議論していかなければなりません。「言語自体が抽象的な存在であり、そのような『具体的な事実』など、たとえば生物学的な『事実』に比べれば『具体性』などないに等しい」という考え方もあるかと思いますが、少なくとも私にとっては、「その程度の具体性」でも「通過」する必要があるのではないか、と考えました。元来が抽象的な思考にはまり込んでしまう性格であり、「少しでも具体的な現象を扱う」という「私にとって『苦手』な行為」を通過しなければ、「人が生きて死ぬこと」について、これ以上「深く」考えることは不可能ではないのか、と思ったのです。

その大学生活の中で、私はひとりの牧師さんと出会いました。そして一度、本気でキリスト者になろうと考えた時期がありました。このときのことを、以下のように書かせていただいています。
 

それと関連しますが、「宗教は科学と『矛盾』しない」という立場と同様、「全ての宗教は根本的には同じことを言っている」といった、安易な「宗教多元主義」の考えにも、私はどうしても馴染むことが出来ません。

もちろん、自らの宗派の教えを「絶対」とし、他宗派を攻撃したり、宗教戦争を引き起こしたりすることなどはもってのほかですが、どう考えても、各宗派には他宗派とは「相容れない」部分、そして、それを深く信仰している方々には「絶対に譲ることが出来ない部分」が存在するはずなのです。そういったことをすべて無視し、「細部を取っ払ってみれば『同じこと』を言っているんだから」といった、安易な「合理的・科学的宗教観」に対しては、私はどうしても共感することが出来ません。第一、少数かもしれませんが、それでも必ず日本各地、いや世界各地に存在する「本当の信仰者」に対して、それは極めて「失礼」な態度であると思うのです。(安易な)スピリチュアリストも「全ての宗教の神は、同じ神が別の形を取って表れたものに過ぎない」とか、「全ての宗教は同じことを言っている」、したがって「個別の『宗教』はいらない。」ということを言う場合があります。本当にそうでしょうか?本当にそこまで「信仰」というものは「安っぽい」ものなのでしょうか?

個人的な体験になりますが、私は「本当に信仰を持って生きている人とは、こういう人のことをいうのか」という人物(プロテスタントの牧師の方)を知っているため、そのようなことを安易に言うことはできません。その牧師さんは、私が一対一で面と向かってお話させていただいた時に「私にとってイエスは、今、目の前のソファーに座っている田口君と『同じだけの存在感』を持って、私の中に存在している」と仰いました。そして、「本当にイエスの教えを深く深く信仰していれば、それが『考えようによっては仏教もイスラム教もキリスト教も、全ての宗教は同じことを言っている』という考えには、どうしても、いや絶対に賛成はできない。どう考えても、信仰の一番核となる部分、信仰者が絶対に譲ることが出来ない部分で、それらは明らかに異なるものだから。しかし、それと『他宗派の人々と争う』ことは、全く別の次元の話である。私は、もしイスラム教徒が家に来たら、喜んで家に迎え入れ、ともに食事をするでしょう。イエス様ならそうするだろうから」と仰っていました。

また、キリスト教式の葬儀の時、そこに来られた僧侶の方が遺体の顔に頬を寄せ、抱きついている姿を見たときに、「多くの牧師は嫌がるけれど、僕はあの態度が好きです。本当に信仰を持っていたら、キリスト教式の葬儀であれ何であれ、ああせざるを得ないだろうから。僕は本当に信仰を持っている人には、宗派に依らず敬意を持ちます」とも仰っていました。この牧師さんとの交流があったため、僕は本当に信仰を持つとは、安易な「宗教多元主義」が主張するような「生易しいものではない」と、強い実感を持って信じています。ちなみにその牧師さんは、私が悩みに悩んで、最後に「どうしても洗礼を受けることはできない」と伝えたときに、「それでいい。それどころか、あなたがこれから自分で考えて、最終的にクリスチャンにならなくてもいいんですよ。でも、その真摯な姿勢、自分をごまかさず、真摯に『神様』と向き合うその姿勢だけは、これからもずっと、持っていてください」と仰って下さいました。私はその時、「本物の信仰者」、「本物の信仰を持った方の強さ・凄み」を目の当たりにしました。

(なお、余談ですが、その牧師さんに「何故そこまで『イエス・キリスト』という存在に『実在感』を持つことが出来るのですか?」と質問すると、牧師さんは「問えば必ず答えが返ってくるからだ」とお答えになりました。「いわゆる『祈り』とは、『願いを神に乞うこと』ではないのです。そうではなくて、神に対して『問う』ことなのです。祈りや、聖書を読むという行為を通して。そうすると、何らかの『答え』が返ってきます。それは『誰にでも目に見えるかたち』で帰ってくるわけではありませんが、日常生活の中で『これが神様からの答えかな?』と思えるような『答え』に出会うのです。そうした『問いと応答』を繰り返すうちに、我々クリスチャンは神に対して、イエス・キリストに対して、『実在感』を持つようになるのです」と答えられました。話が飛ぶようですが、これは森田さんが「数学」に対して語られていたことと類似しています。森田さんも以前、数学者は「目に見えない」数学的対象、数学的世界に対して、計算などによる「問い」と「応答」を通して実在感を持つようになる、と仰っていました。人が「目に見えない『存在』」に対して「実在感」を持つためのひとつの大きなキーワードが、この「問いと応答」なのではないかと、私は考えています。

その2へつづく)


<田口慎也氏プロフィール>
1984年生まれ。長野県出身。14歳で強迫性障害を発症後、不安や恐怖について、病や死について考えるようになる。20代前半の頃に、甲野善紀氏の「矛盾を矛盾のまま矛盾なく扱う」という言葉に出会い、甲野氏の活動に関心を持つ。


 
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甲野善紀
こうの・よしのり 1949年東京生まれ。武術研究家。武術を通じて「人間にとっての自然」を探求しようと、78年に松聲館道場を起こし、技と術理を研究。99年頃からは武術に限らず、さまざまなスポーツへの応用に成果を得る。介護や楽器演奏、教育などの分野からの関心も高い。著書『剣の精神誌』『古武術からの発想』、共著『身体から革命を起こす』など多数。

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