甲野善紀
@shouseikan

「風の先、風の跡――ある武術研究者の日々の気づき」

柊氏との往復書簡

※甲野善紀メールマガジン「風の先、風の跡~ある武術研究者の日々の気づき」 からの抜粋です。

◇はじめに

前回の241号で「柊氏との往復書簡」の第一回目の書簡を私から柊氏にお送りしたのに応える形で、今回は柊氏からの第一信をお届けしたい。柊氏の文章は、予想はしていたが(そうでなければ柊氏を往復書簡という企画に誘ったりはしないわけだが)、予想を超える見事な文章である。この見事な柊氏の文章に対して、次回か次々回のメールマガジンには、私からの第二信を掲載したいと思う。これに対して柊氏からどのような見事な文章をいただけるか、それは私の第二信にかかっていると思うので、私も心して第二信を出したいと思う。

甲野善紀
 
甲野善紀からの第一信はこちらから http://yakan-hiko.com/BN10668
 

第二回 柊氏より甲野善紀へ

正直、一体自分がなぜこういう場で、こういう風な形(往復書簡)で書いているのか、今でもよくわかっていません。

僕は、十代の頃、ほとんど他人と喋れない時期があり、その頃に自分の思考や感情を言葉にする習慣をつけて以来、細々とひとりで書いているだけの人間で(ときどき周りの友人や、ネット上で通りすがったひとが、いいと思うよ、わかるよ、と言ってくれるのを喜んでいるだけで)、特に専門的な知識を蓄えてきたわけでも、修練を積んだ特別な技術があるわけでもありません。

だから、こうした場は、恐れ多くもあり、光栄でもあり、一体自分に何が書けるのだろう、お相手が務まるのだろうか、と多少不安もあるのですが、とは言え、背伸びもできませんし、自分の見てきたこと、経験してきたことを踏まえ、なるべく自然体で書けたらと思います。

まず、甲野さんが第一信で書いてくださったことは、この新型コロナの問題の根幹部分で、自分のなかでも改めて整理されます。

他者と触れ合う機会を遠ざけ、人間は怖い、人間は汚れている、人間は危ない、呼吸しているだけでも最悪死に至らしめる存在だ、とほとんど洗脳のようにメディアも延々報じますが、これは相当深刻な心理的トラウマを与えることになるのではないかと危惧しています。

また、当初から叫ばれていた「ウイルスと戦争だ」「ウイルスに勝利する」という世界的なスローガンも、とても危ういものを感じさせます。

戦争と言ってしまえば、「広げる(と思われる)」行為は全て「敵」になり、相互監視の息苦しさも酷くなりますし、そもそもなにをもってして勝利なのかもわかりません。

この表現に関し、分子生物学者の福岡伸一氏は、『コロナ時代をどう生きるか~ウイルスとの「動的平衡」』という講演のなかで、次のように語っています。

“ウイルスは、自然の輪の中の一部なので、撲滅したり、ゼロにしたり、制圧したり、戦ったりすることは本当はできないことだと私は思います。

(中略)

ウイルスが自然の輪のなかの一員なら、我々の体自体も自然のなかの一員なわけです。我々にもっとも近い自然は、我々の体なわけです。

そして私たちの体には、ウイルスや細菌がやってきたときに、それに対して、適切に対応できる仕組みがあります。それは免疫システムです。”

福岡氏のこの言葉などは、まさに自然観そのものの話ですが、自然の負の側面、特定の一部分だけを切り取り、悪とし、戦ったり、排除したり、ということはできないでしょうし、これを強引にでも行おうとすれば、それは大きな歪みを起こし、結局「人間」の自滅に向かっていくのではないかと思います。

ウイルスが存在し、生きものと生きもののあいだを行き来する、うつしうつされる、そのなかで体の側も対応する免疫システムが維持される。

こうした流れを、人間中心主義的な視点から分断していこうとすれば、いずれは人間そのものの否定に繋がっていくでしょう。

当然経済の問題も重要で、この先色々な方面に悪影響を及ぼすことになるでしょうが、この心や自然観の問題、また、関連して広く「命」の問題について(これらは結局コロナ以前からずっと考え、個人的に向き合ってきたことでもありますが)、今、そしてこれからますます問われていくことになるのではないかと思います。

ウイルスとの戦争というフレーズとともに、よく聞かれたのが、命を大切にしろ、といった批判的ニュアンスを帯びた指摘でした。

しかし、それでは一体「命を大切にする」というのはどういうことなのでしょうか。

僕は、この部分が、あまりに一面的で、かつ独善的であると思いました。ただ一つの「命を大切にする」だけが押し付けられているような感覚を覚えました。

たとえば、先ほどの福岡氏のような視点から見る「命」もあり、その大きなシステムを破壊しようとすることは「命を大切にする」と相反するのではないかと、少なくとも、そういう視点で世界を眺めることも重要なのではないでしょうか。

また、別の視点で見れば、「命」は、死だけでなく、どのような生を送るか、ということにも深く関わってくるわけで、「死なない」ということだけが、「命を大切にする」ということではありません。

それは、昨今で言えばQOL(クオリティ・オブ・ライフ)のような言い方をされていたと思うのですが、その考えかたも「新しい生活様式」の影で、どこか忘れられてしまっているような気がします。

さらにもう少しだけ想像の羽を広げ、たとえば、もし今後延命の科学技術が発達し、五十年、百年と身体としての生命の延命が可能になったとして、それはほんとうに「命を大切にしている」と言えるのでしょうか。

あるいは、もし“永遠の命”が叶ったとして(僕はそんなことはありえないと思っていますが)、果たしてそれは「命を大切にしている」世界と言えるのでしょうか。

このように「命を大切にする」というのは複層的なものであるという認識や議論が、この問題を機に深まっていけばと思っていたのですが、現状では、更なる悪化、先鋭化を招きそうなことが心配ではあります(ただ、長期的に見れば、今後問題がさらに顕在化し、色々と苦しみも続くでしょうが、その上で、次第によい方向に向かっていくと僕自身は信じています)。

もう一点、関連して僕が疑問に思ったのは、無症状かもしれず、だれかにうつすかもしれない、だれかを殺すかもしれない、というただ存在するだけの加害性の非難です。

普段の風邪やインフルエンザにしても、多くが無症状で、これまで大規模に調べていなかっただけでだれかにうつしていたかもしれませんし、めぐりめぐってだれかが亡くなる、ということもあったでしょう。

それは人間社会を保つ以上、ある程度受け入れなければいけないことであり、その点をもって他人の加害性を殊更に批判したり、動揺するということ自体、その前提に、自分自身が無垢であろうとしさえすれば無垢なのだと信じ込んでいる、というのがあると僕は思います。

たとえば、それは言葉も同じで、どれほど優しい意味合いの言葉でも、その言葉によって傷つける(傷つく)こともあるでしょうし、そのとき負った痛みを覆い隠そうとして別のだれかを傷つけ、めぐりめぐって知らないだれかが自殺してしまうかもしれない。あるいは、悪気のない表現が、「コップの溢れる最後の一滴」になるかもしれない。

言葉のなかにある「だれかを傷つけるかもしれない」という要素を徹底的に排除しようとすれば、この世から言葉は失われるでしょう。

しかし、人間は、言葉(あるいは全ての表現)で傷つくとともに、繋がり、救いとなる場合もある。その両面があり、片方の悪の部分だけを切除することはできない。

もちろん、わざと悪意を持って言葉で攻撃するのは問題ですが、ただ、言葉で伝える、もっと言えば言語化自体に、そもそも加害性が含まれていると僕は思います。だから、「全否定」はできない。

生きることには、加害性が伴います。めぐりめぐってだれかを殺しているかもしれない。でも、それはめぐりめぐってだれかの優しさになっていることと表裏一体でもあります。

最初のほうでも少し触れたように、自然に生きようとするなかで切り離すことのできない加害性を過度にピックアップし、繰り返し、繰り返し、まるで条件付けのように「あなたは知らないあいだにだれかを殺しているかもしれない」と浴びせかけるのは、たとえそれがわずかながらに真実の側面を持っていたとしても、決してするべきではないと思います。

以上、この一年考えてきたことを、自分なりにまとめてみました。

まだ色々ととっ散らかったままで、書きながら整理しつつ、それでもうまくまとめられなかったのですが、要約すれば、「僕たちはそんなにきれいには生きていないですよ、それをむりやりきれいにしようとすれば、おかしなことになりますよ」ということなのかもしれません。

そして、甲野さんが第一信の最後に問いかけた「人が人として生きるとは」ということも、ほんとうの意味で「命を大切にする」とはどういうことか探り続ける、ということなのではないか、と思います。
 


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甲野善紀
こうの・よしのり 1949年東京生まれ。武術研究家。武術を通じて「人間にとっての自然」を探求しようと、78年に松聲館道場を起こし、技と術理を研究。99年頃からは武術に限らず、さまざまなスポーツへの応用に成果を得る。介護や楽器演奏、教育などの分野からの関心も高い。著書『剣の精神誌』『古武術からの発想』、共著『身体から革命を起こす』など多数。

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