※高城未来研究所【Future Report】Vol.717(3月14日)より
今週は、バラナシにいます。
インド北部ウッタル・プラデーシュ州に位置する世界有数の古都バラナシは、ヒンドゥー教最大の聖地として知られ、ガンジス川西岸に広がる市内には大小あわせて約1500ものヒンドゥー教寺院と270以上のモスクが存在し、年間で100万人を超える巡礼者が訪れる宗教都市です。
今週、ホーリー祭(インド歴第11月の満月の日)が開催されることもあって、続々と人が集まってきています。
バラナシの歴史は非常に古く、その起源は古代インド神話や叙事詩にも遡ります。
紀元前6世紀頃にはカーシー王国の都として栄え、十六大国(マハージャナパダ)の中でも最大勢力を誇る政治・経済・文化・宗教の中心地でした。
古代叙事詩「マハーバーラタ」にもバラナシ(カーシー)の存在が言及されており、バラモン(司祭階級)が修行する宗教的拠点でもあったことが伝えられています。
紀元前4世紀にインド初の統一帝国であるマウリヤ朝に組み込まれた後も、グプタ朝など歴代王朝の庇護の下でヒンドゥー教の中心地としての地位を保ち、5世紀にはシヴァ神を祀るカーシー・ヴィシュワナート寺院(黄金寺院)が建立されるなど、この時代までにバラナシはヒンドゥー教の聖都として確固たる地位を早くも確立しました。
一方、市街近郊の鹿野苑(サールナート)は、仏教の開祖ゴータマ・ブッダが初めて教えを説いた地であり、アショーカ王(紀元前3世紀)による建造物跡やグプタ朝期の仏塔・僧院跡などの宗教遺跡が発掘されています。
このようにバラナシ周辺は古来よりヒンドゥー教と仏教双方の聖地として機能してきたエルサレムのような複雑な背景を持つ場所なのです。
バラナシは18世紀後半になるとイギリス東インド会社の勢力下に入り、イギリス植民地期には藩王国として統治され、19世紀以降はヒンドゥー教文化復興の気運の中でベナレス・ヒンドゥー大学(1916年創立)をはじめ教育・学問の中心地としても発展。
バラナシはヒンドゥー教信仰の聖地・文化都市としてその地位を維持し、今日までずっと「インドの精神的首都」あるいは「生きた遺跡」とも称される独特の存在感を放ち続けています。
バラナシがヒンドゥー教徒にとって特別な聖地とされるのは、宗教的伝承と文化的慣習の両面からの理由があります。
ヒンドゥー教の神話によれば、創造神ブラフマーと破壊神シヴァが争った際、シヴァがブラフマーの首の一つを切り落として手に提げたまま各地を巡礼し、このバラナシの地でその首が手から落ちて大地に消え失せたとされています。
この神話により「シヴァ神が創始した都市」としてバラナシは極めて神聖視され、また、ヒンドゥー教の伝統で解脱(モクシャ)を得られるとされる七大聖都(サプタ・プリー)の一つにも数えられるため、古来より「バラナシで死ねば輪廻転生の輪から解き放たれる」と信じられています。
そのため、現代でも南インドなど遠方から「バラナシで最期を迎えよう」と考えて訪れる人々が増えており、死期を悟った高齢者が家族に全財産を託して単身バラナシに移り住むケースが多々見られます。
彼らは市内で部屋を借りたり、ムクティ・バワン(解脱の家)と呼ばれるホスピスに入所して、最期の日々をガンジス川のほとりで過ごします。
バラナシが聖地とされるもう一つの重要な要素は、母なる河ガンジス川そのものがヒンドゥー教徒にとって女神ガンガーとして人格化されるほど神聖な存在であり、古来より沐浴信仰の中心となってきたのも理由です。
日の出とともにガート(河岸の階段)に集う人々が冷たい川水に身を浸し、太陽神に祈りを捧げる光景はバラナシの日常で、巡礼者たちは「ガンジス川で沐浴すれば現世の罪業が清められる」と信じ、年中途切れることなく川岸で沐浴や礼拝を行います。
また、ガンジス川で荼毘に付され、その遺灰を流してもらうことも死後の魂の救済に繋がるとされていることから、遠方から運ばれた遺体を乗せた火葬の煙が24時間絶えることなく川面に立ち上っているのもバラナシの日常です。
こうした宗教儀礼は巡礼者のみならず世界中の旅行者をも魅了し、「生と死が交錯する神秘の都」バラナシの名を不動のものとしているのです。
国内的にはヒンドゥー教徒にとって一生に一度は訪れたい巡礼地であり、事実、バラナシやリシケシといった象徴的聖地はインドの「宗教観光ブーム」を牽引。
州当局の発表によれば、2023年にバラナシを訪れた観光客数は5億3800万人!以上にのぼり、そのうち99.7%がインド国内からの旅行者で占められていました。
これは10年前から4倍以上の増加となり、こうした観光客の急増に伴って市内には新たな雇用やビジネス機会が創出され、ホテル・交通・土産物産業などが活況を呈しています。
インド全体で観光客数(特に国内旅行者数)が増加した背景には、先週先々週とお伝えしたように経済成長に伴う中間層の拡大が大きく影響しています。
特にこの十年、高成長を遂げたインドでは、人口増加と相まって都市部を中心に中間層が急増。
可処分所得を手にした新興中間層はレジャーや宗教目的で国内旅行に積極的に繰り出すようになり、その結果、国内観光市場が飛躍的に拡大しました。
実際、インド人の延べ国内旅行者数は2000年代以降ほぼ毎年のように前年比プラスを記録し続け、2008年に約5億6千万だったものが2019年には約23億2千万にまで膨れ上がっています。
かつて巡礼といえば徒歩や長距離鉄道、バスを乗り継いで日数をかけて行くものでしたが、今や多くの人々が手頃な航空券を駆使し、週末や連休を利用して国内を飛び回ります。
格安航空会社(LCC)の路線網拡大やオンライン予約の普及により、飛行機で聖地巡礼に行くことがいまや当たり前になりました。
バラナシも例外ではなく、近年では南インドの主要都市(バンガロール、チェンナイなど)やムンバイ、デリーからの直行便が次々と就航し、地方からのアクセスが飛躍的に向上しています。
久しぶりに訪れ驚きましたが、改装されピカピカになったバラナシ国際空港のターミナルには各地からの到着便がひっきりなしに発着し、空港と市街地を結ぶ新設バイパス道路には巡礼バスやタクシーがひしめき、いまや「聖地巡礼=長期間の一大行事」という図式が崩れ、老若男女問わず気軽に週末訪問できる観光地としてバラナシはさらに人気を博すようになっているのです。
ヒンドゥー教の教義では本来カースト(ヴァルナ)制度による身分差がいまも重視されますが、聖地に集うとき人々は「信仰」という共通項で結ばれ、一時的に社会的階層の垣根を超えて交わります。
しかし、街を歩けばインドの抱える深刻な貧富の差が否が応でも目に飛び込み、ガンジス川沿いの火葬場では絶えず薪火が焚かれ、多くの遺体が次々と焼かれ、川岸のガートには物乞いの他にも聖なる灰を体に塗ったサドゥ(行者)が座して信者からの喜捨(ダーナ)を待ち、また聖水を入れる土器や花輪を売る子供たちや女性たちの姿もあります。
こうした光景をスマートフォンで撮影するインド人を見ると、現代のバラナシは、宗教的聖地というより「映えの聖地」といった方が現実的です。
インド各地から訪れる中間層以上の観光客にとって、バラナシで目の当たりにする貧困やカーストの現実は、都市部では見かけなくなったショッキングな光景でありながら、同時に懐古的なインドの映えスポットでもあります。
高級ホテルに宿泊し、エアコンが完備されたタクシーで移動する富裕層巡礼団と、徒歩や格安列車で長旅をして狭い寺院宿に泊まる農村の貧しい巡礼者とでは、同じバラナシを訪れていても過ごす世界はまるで異なります。
バラナシは聖なるガンジスのもとに万人を迎え入れる寛容な街である一方、その内部ではインド社会の縮図ともいえる激しい身分や所得格差が、いまも厳然と横たわっていると感じる今週です。
しかし、どこも人だらけ。
この国では、オーバーツーリズムというより、オーバーポピュレーションが、デフォルトです!
高城未来研究所「Future Report」
Vol.717 3月14日発行
■目次
1. 近況
2. 世界の俯瞰図
3. デュアルライフ、ハイパーノマドのススメ
4. 「病」との対話
5. 大ビジュアルコミュニケーション時代を生き抜く方法
6. Q&Aコーナー
7. 連載のお知らせ
高城未来研究所は、近未来を読み解く総合研究所です。実際に海外を飛び回って現場を見てまわる僕を中心に、世界情勢や経済だけではなく、移住や海外就職のプロフェッショナルなど、多岐にわたる多くの研究員が、企業と個人を顧客に未来を個別にコンサルティングをしていきます。毎週お届けする「FutureReport」は、この研究所の定期レポートで、今後世界はどのように変わっていくのか、そして、何に気をつけ、何をしなくてはいけないのか、をマスでは発言できない私見と俯瞰的視座をあわせてお届けします。


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