川端裕人メールマガジン『秘密基地からハッシン!』vol.002より
〈ロンドン自然史博物館にあるドードーの「伝統的な」復元。本物の剥製ではありません。他の鳥の羽を使ってそれらしく整えられたもの〉『秘密基地からハッシン!』vol.004より
創刊号から連載している「ドードーをめぐる堂々めぐり」第2回(第1回はこちら)。インド洋マスカリン諸島のモーリシャス島に生息していたドードーは、17世紀に絶滅したといわれていた幻の飛べない鳥である。この生き物が「じつは1647 年の江戸時代初期に日本に来ていた」という情報が筆者のもとに入ってきた。長い長い“ドードー・チェイス”が、いま、幕を開けるーー
ドードーが「日本に来ていた」という論文がある。
ロンドン自然史博物館のジュリアン・ヒューム博士らが、昨年(2014年)、日本にドードーが来ていたことを示す論文を出した。 "Historical Biology:An International Journal of Paleobiology"という論文誌に掲載されており、タイトルは、"The dodo, the deer and a 1647 voyage to Japan"(「ドードーと鹿、1647年、日本への旅」)で、著者は、Ria Wintersa & Julian P. Hume。
(『秘密基地からハッシン!』Vol.002号で論文の要約を紹介しています)
それによると、なんと生きたドードーが日本まで来ていただけでなく、それは「最後のドードー」(飼育されたものとして)でもあったというのである。
1647年当時の世界情勢はどうなっていたのか?
まず、確認事項。
1647年とは、どんな時代だったろうか。
ヨーロッパとしては大航海時代にかろうじて含めるらしい。大航海時代の「尻尾」のような時期だと言えるだろうか。
ディアスの喜望峰回航、ダ・ガマのインド航路開拓、コロンブスのアメリカ到達、マゼランの世界一周などは、15世紀から16世紀前半のことなので、17世紀までがそこに含めるのも意外だが、欧州による世界の「発見」と、それに引き続く世界支配体制の確立期といえるだろう。
だから17世紀の時点では、すでに主要なすべての航路が発見されている(「北西航路」のような特殊なのもは除く)。海洋進出では後発国だったオランダは、インド洋航路の難関、喜望峰の近く、現在の南アフリカ共和国のケープタウンをはじめ、インドネシアのジャワ島などを植民地とした。
モーリシャス島に到達し、ドードーを初報告したファン・ネック艦隊の探検航海は、植民地を求めるオランダの大航海時代的な国家事業だった。1638年以降、モーリシャスにはオランダ人が定住し、インド洋の寄港地になっていた。
一方、日本は江戸時代初期だ。
三代将軍、徳川家光の時代。1637年(寛永14年)に島原の乱があり、1641年(寛永18年)頃には、キリスト教布教に熱心だったポルトガル人を排除して、鎖国体制が出来上がったことになっている。同時期に幕府による出島でのオランダ貿易の独占も確立している。
内乱を平定し、外との連絡を限定したのだから、幕府の体制は盤石である。と思いきや、1642年(寛永19年)からは寛永の大飢饉が起こる。1644年(正保元年)には、田畑永代売買禁止令を発布、全国の大名に領地や城の見取り図である郷帳・国絵図・城絵図を作成させるなど、農民、大名両面の統制を新たにする。
この時代の日本は、初期政権のゆらぎが徐々におさまり、今、ぼくたちが「江戸時代」としてイメージする、鎖国、幕藩体制などが、その後200年以上続く基礎を築いた時代といえそうだ。
一方、東アジア情勢としては、1644年に中国大陸で明が滅び、満州族(清)が進出するなど、大きく時代がうねっていた。
ドードーが日本に来たとされるのは、そのような時代であった。
さて、論文の著者らは、オランダに残された出島のオランダ商館長日記を読み解くことで、ドードーの来日を結論づけている。
しかし、それ以前から、「ドードーが日本に来ていたかも」という史料はあり、その背景には、興味深い事実があるので、先に言及しておく。
ドードー贈ります、と書かれた書簡はあったが
実際の到着を裏づける証拠はなかった
ドードー研究の世界に燦然と輝く日本人研究者の業績がある。
ラストショーグン・徳川慶喜の孫で華族だった風雲児、蜂須賀正氏の「ドードーとその一族、またはマスカリン群島の絶滅鳥について」は、1950年に北海道大学に提出された博士論文であり、のち53年にロンドンのH. F. & G. WITHERBY 社から出版された。
http://ci.nii.ac.jp/naid/500000491508
北大に提出された博士論文なので、日本の論文サイトCiNiiの検索にかかる。この長大な論文は、いずれ立ち戻って考えることになると思うのだが、ここでは蜂須賀が、すでにこの時点で、「ドードーが日本に来ていたかも」ということは知っていたと述べておく。
蜂須賀によれば、1647年7月、バタビア(ジャカルタ)の総督から、出島の商館長ウィレム・フルステーヘンに対して、書簡が書かれている。ヒュームらの論文にも、この書簡のコピーが紹介されている。
その中に「親愛のしるしとして、白いシカと、モーリシャスのドードーを贈る」とある。
これはバタビア側の史料であり、実際にそれが実行され、日本に着いたかどうかは不明だったわけだ。蜂須賀は、長崎県庁に問い合わせ、それ以降の記録がなかったと結論している。日本人である蜂須賀が調べられなかったのだから、史料はないのだろう、というふうにその後のドードー研究者は思っていたわけである。
さまざまな生き物が集まっていた
オランダ統治下のインドネシア、そしてアジア
さて、そこで、ちょっと話を戻す。
バタビア総督が「ドードーを贈る」といったとしても、ジャカルタとモーリシャスはずいぶん離れている。そもそも当時のインドネシアにドードーが到達しえたのか。
論証としては、そこを押さえておくべきだ。
ヒューム論文はまずそこから問題にしている。
結論としては、モーリシャス島からバタビアへ、生きたドードーが「出荷」された記録はない。
ただし、当時のオランダ船がとった航路の中で、モーリシャス諸島は、中継点の一つで、船の往来が毎年あったことは間違いない。
当時の、インド洋・太平洋航路の寄港地は、以下のとおり。
ケープタウン(南アフリカ)、コロンボ(スリランカ)、ベンガル(インド)、バタビア(インドネシア、ジャカルタ)、アンピン(安平、台湾の台南市近く)、マカオ(中国)、そして、「長崎の人工島」である出島。
モーリシャス島は、ケープタウンからインド洋を渡る途中に立ち寄る位置で、立ち寄った船は、島特産の「モーリシャス黒檀」(Diospyros tesselaria カキノキ科の硬木で、定まった和名はないようだ。あれば知りたし)を積み込んで、コロンボ、ベンガル、バタビアへと向かった。
そして、バタビア。現在のジャカルタ。
インドシナ半島とオセアニア、東アジアをつなぐ海の交差路とも言える要衝だから、オーストラリアやボルネオなどの珍奇な動物も集まってきた。
オーストラリア、ニューギニアのヒクイドリは、丈夫で飼育ししやすかったのか、日本にもバタビア経由で何度も入ってきている。最初期のものは、江戸時代初期の寛永12年(1635年)に、平戸藩により幕府に献上された。
現在の「パンダ外交」からも想像できるように、どの時代も、珍奇な生き物を贈るのは、時の権力の歓心を買う一つの手段とみなされていた。
したがって、ドードーがバタビアに運ばれ、日本へ送られるのも不自然なことではなかった。ヒューム論文では、1647年7月にパダビア総督から出島商館長への書簡が書かれていることから、その直前にモーリシャスからバタビアへとドードーを連れてきた可能性がある船「Post」を、特定している。しかし、「Post」の航海日誌などで裏付けがとれたわけではない。というよりも、ドードーを島から持ちだした船の記録は、ほかにも一切残っていないので、これはないものねだりに近い。
出島のオランダ商館長の日記に
「ドードー到着」を示す記述が……
では、ヒューム論文の新しさはどこにあるかというと、「バダビア後」、日本に到着した後の記録があったということなのだ。
オランダ商館長が代々、書きつないだ"Daghregister"(日誌、日記、のような意味)の中にドードーが記載されていた。それもバタビア提督からの「ドードー送ります」の書簡と呼応するものとして、実際に受け取ったと商館長日記などにしっかり記されている。
蜂須賀が長崎県庁に問い合わせてもわからなかったことが、出島の記録を保管しているオランダのハーグの古文書館にて、史料が見つかった!
<続きは川端裕人メールマガジン「秘密基地からハッシン!」Vol.002(2016年10月16日発行)にてお読みください>
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Vol.011(2016年3月4日発行)目次
01:本日のサプリ:森の妖精・フィヨルドランドペンギン
02:keep me posted~ニュースの時間/次の取材はこれだ!(未定)
03:秘密基地で考える:イルカと水族館:シーワルド編その3 変わりゆく水族館
04:宇宙通信:アメリカのミッドランド宇宙港ツアーレポート!
05:おたよりコーナー
06:連載・ドードーをめぐる堂々めぐり(11)絶滅動物部「ドードー」班、始動!
07:せかいに広がれ~記憶の中の1枚: カンボジアのトンレサップ湖の子どもたち
08:著書のご案内・予定など
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