科学報道をめぐるメディアの問題点
津田:裏取りや専門家取材という話だと、田中さんも2008年に『iPS細胞 ヒトはどこまで再生できるか?』という書籍を出されています。[*17] もともと科学者だった田中さんもこの問題の「専門家」であり、その後大学で科学技術報道について研究されているという希有な立場でもあるわけですが、この件で、田中さんのところに取材のオファーはなかったんですか?
田中:ある新聞からありましたよ。「森口事件について研究なさってますか?」と聞かれたので「今回のことについては特に研究するようなことはありません」「この先も研究はしないと思います」って答えました。というのも、森口さんの一件ってはっきり言ってショボいんですよ。
津田:ショボい?
田中:情けない話だけれど、この手の論文捏造って科学の世界では珍しくなくて、森口事件のひな形ともいえる上に、もっと大きな事件に発展したものも少なくないんです。たとえば有名なのはシェーン事件。[*18] これは現在、Eテレの『すイエんサー』[*19] などの番組を手がけているNHKのプロデューサー、村松秀さん [*20] が2006年に書いた『論文捏造』(中公新書ラクレ)[*21] という新書でも取り上げられています。2000年、ドイツの元物理学者、ヤン・ヘンドリック・シェーンという人が、一見すると画期的な手法を打ち立てて、それまで9年くらい破られていなかった超伝導の臨界温度の最高記録をあっさり塗り替えたという論文を発表したんです。「これはスゴい」ということになり、世界中の科学者や研究機関が何十億円、何百億円もの予算を投じて検証実験を繰り返しました。しかし2002年になって、実はその高温超伝導の論文は、すべてシェーンが捏造したものだったと発覚した大事件があったんです。
津田:何百億もの無駄金や多くの人の労力が失われていない分、森口さんの一件は罪が軽いとは言わないまでも、ショボいというわけですか?
田中:そうです。大規模な銀行強盗とピッキング騒ぎの違いというか。また、より深刻な被害を生んだものに、「マスコミが作り上げ、マスコミが騙された」黄禹錫(ファン・ウソク)事件というのもあります。[*22] 2004年、韓国の獣医学者、黄禹錫がヒトクローン胚から胚性幹細胞(ES細胞)の作製に成功したと発表したものの、その論文はすべて捏造だったことが2005年に発覚した。こう言っちゃうと悪いんですけど、韓国社会にはノーベル賞コンプレックスがあって、科学の世界に対しても「いつ、誰が獲るんだ?」という強いプレッシャーがあるんです。そこにヒトクローンでES細胞を作ったという黄教授が現れたものだから、政府もメディアも「これでノーベル賞を獲れるぞ」と色めき立ってしまった。[*23] 日本で言えば文部科学省に相当する韓国科学技術部は、黄教授を「最高科学者」第一号に認定し、メディアも彼を国家のヒーローに仕立て上げたんです。そして、日本ではあまり報道されていないんですけど、韓国国内ではそうしたフィーバーの影響も手伝ってか、まだ検証が済んでいない幹細胞治療を脊椎損傷の患者に適用しちゃっている。その患者さんは一時的には「立てるようになりました」と報道されていたんですけど、それはプラシーボ効果だったのか、結局、症状は以前よりもヒドくなった。車イス生活だったのが、寝たきりになっちゃったらしいんです。
津田:それに比べれば、森口さんの件は臨床例がないのにでっちあげたという意味では、被害者はゼロですよね。本人は「5例はウソだけど、1例は本当。実際に臨床応用した」と主張していますが、[*24] その部分についても怪しいですよね……。
田中:加えて、捏造に対するメディアの感度の鈍さも韓国に似ているからこそ、森口さんの件については「何を今さら」という気がするんですよ。黄禹錫事件ではヒトクローンES細胞を作製したことに「画期的だ」という注目が集まったわけですけど、正直な話、クローン胚作製の技術そのものは、2004年までにとっくに確立されていたんです。1996年には英国のイアン・ウィルマット博士がクローンヒツジのドリーを誕生させているし、それ以前からカエルによる実験などが進められていた。それから、これは黄禹錫さんの発表の中で唯一の事実だったんですけど、彼はイヌクローンを生み出していたし、そのほかサルでの成功例があるとも言われていた。あとは「ヒトでやるか? やらないか?」というだけの話であって、別段、ノーベル賞レベルの画期的な発見や実験ではなかったんです。世界的には「ヒトでもクローンはできるだろうけど、倫理的に問題があるし、そもそもほかのクローン技術も病気治療にはまだまだ応用できてないのに、ヒトクローンを無理に作る必要はないよね」「新しくES細胞を作るのは、将来ヒトになる受精卵を潰す=殺すこととも解釈できるから、しばらくは今までに作ってしまったES細胞だけで実験しよう」という雰囲気だった中、黄教授が「やった」と発表しただけ。だから、バイオ業界的には「えっ、韓国はヒトでやっちゃったの?」っていう感じだったんですよ(笑)。
津田:にもかかわらず「ノーベル賞」というキーワードに煽られて報じてしまっているあたり、構図としては森口さんの件に似ていますね。
田中:しかも、生物学の世界には伝統的に、必要ならば遺伝子やクローンの取り扱いについて研究の手を止めて、きちんと取り決めようという雰囲気がまだあるんです。1975年、遺伝子組み換え技術が確立されたことを受けて150人前後の科学者が「アシロマ会議」[*25] というのを開いたんですね。そこで、遺伝子に安易に触るのは危険かもしれないからと、研究のガイドラインについて議論するために、いったん研究をストップしているんです。だから、多少科学的素養のあるジャーナリストなら「そういう経緯がある中で、黄教授は本当にヒトクローンを作ったのか?」という疑問を抱けたはずなんですよね。
津田:なるほど。となると、科学的素養のある人から見たときに、森口さんの発表やコメントにはどんなツッコミどころがあったんですか?
田中:科学以前に当たり前のことですが、臨床応用のセオリーとして、心臓のような失敗すると致命的な器官から始めることはありえません。万が一の時に比較的ダメージが少ない網膜などの器官に対して、ようやくiPS細胞を応用した治療が始まろうとしているところだった――そんな相場観があったのでピンときました。もう一つ引っかかったのは、読売新聞の取材に対する「親方日の丸じゃダメ」という森口さんのコメント。[*26] あれは山中さんがノーベル賞を受賞した際の「日の丸の支援がなければ受賞できなかった」[*27] という発言を意識した、ある種のルサンチマンから発せられた言葉でしょう。そこから「あっ、この人名前を売りたいだけかも」という推測もできたはずです。それに、この「親方日の丸」的発想自体にも問題がある。「日本ならいろいろな規制があってできなっただろう。このまま日本でやっても書類の山を溜めるだけだった」と、さも米国だから臨床応用できたような発言をしているんですけど、これもそんなに単純な話じゃないんです。
津田:確かに米国のほうが自由に研究できそうなイメージはありますけど……。
田中:少なくとも、森口さんがコメントしているようなことはないんですよ。日本ではほとんど報じられていませんが、オバマとロムニーの大統領選の争点の一つになるくらい、米国は再生医学研究の取り扱いには慎重です。[*28] キリスト教国ですから、「生命倫理的配慮が必要だ」という縛りが強いんですね。もしも何らかの実験をしたいのであれば、とにかく大量の書類を書かなければ、その研究機関の倫理委員会を通らない。しかも、人種的配慮など、日本よりもチェックされる項目は多いんです。仮に、最初に心筋iPS細胞を適用する患者が黒人ばかりとなれば、すぐに「人種差別の人体実験だ」と言われますから。つまり、「日本より米国のほうが臨床応用しやすかった」という言葉を鵜呑みにすることはできないんです。プラス「過冷却」という謎の技術を使っているあたりも、引っかかると言えば引っかかる点ですし。
津田:その「過冷却」という言葉に田中さんが引っかかったように、論文の内容自体に科学者から見て気になる点はなかったのでしょうか? 盗用があったんじゃないか、なんて指摘もありましたけど。
田中:英国の科学誌『ネイチャー』が、森口さんは山中さんやほかの人の論文を盗用していたのではないかと報じ、[*29] 日本のメディアも「もともと盗用するような人だった」というニュアンスで後追い報道していますけど、[*30] それもまたちょっと読みが甘いんですよ。実際に彼の論文を読み込んでみた八代さんに教えてもらいましたが、盗用があったとされているのは、論文というよりも「プロトコル(方法)」を紹介した報告――つまり、どのように実験を行ったか、その手法や手順を紹介するレポートです。ただ、方法というのは先行研究をもとに確立する面もあるので、難しいところですよね。まあ、ほかの論文と一言半句違わぬテキストになってしまっているのはどうかと思いますが……。
津田:森口さんが弁明しているとおり、同様の研究をしているなら、同様の言い回しを使わざるを得ない面もある、ということですね。
田中:だから『ネイチャー』の「丸々コピー&ペーストするのはいかがなものなの?」という指摘は正しいものの、国内メディアのように事の顛末だけを見て「もともと盗用するような人だから、ウソをついていたに違いない」と短絡的に結論づけることも危ないんです。ただ、『ネイチャー』の記事をもとに、森口さんのこれまでの研究のおかしな点を見つけることは不可能じゃない。その中には、ナマモノ――生物学者は細胞やネズミなどを用いた泥臭い実験のことをこう呼ぶことがあるんですけど――の世界に一度でも触れたことのある人なら、100%ゲラゲラ笑ってしまうようなポイントが一つあるんですよ。「うわっ! 森口さん、奇跡を起こしてる」って(笑)。
津田:えっ、どんな奇跡なんですか?
《この記事は「津田大介の『メディアの現場』からの抜粋です。この続きは、ぜひご購読をお願いします。》
[*1] http://www.nikkei.com/article/DGXNASDG13014_T11C12A0CC0000/
[*2] http://gohoo.org/news/121106/
[*3] http://ryukyushimpo.jp/info/storyid-197930-storytopic-1.html
[*4] Googleキャッシュ→http://webcache.googleusercontent.com/search?q=cache:lj9cFJhOD90J:www.tokyo-np.co.jp/article/column/editorial/CK2012101602000117.html+&cd=1&hl=ja&ct=clnk&gl=jp
記事のミラー→http://ameblo.jp/heiwabokenosanbutsu/entry-11380931172.html
[*5] http://www9.nhk.or.jp/kabun-blog/200/134462.html
[*6] http://www.asahi.com/national/update/1013/TKY201210120636.html
[*7] http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20121106-OYT1T00711.htm
[*8] http://www.asahi.com/national/update/1013/TKY201210120674.html
[*9] http://www.jcp.or.jp/akahata/aik07/2007-07-01/2007070114_01_0f.html
http://b.hatena.ne.jp/articles/201201/7289
http://ci.nii.ac.jp/naid/110006825822
http://www.axis-cafe.net/weblog/t-ohya/archives/000884.html
[*10] http://kotobank.jp/word/%E3%83%9D%E3%82%B9%E3%83%89%E3%82%AF%E5%95%8F%E9%A1%8C
[*11] http://k-ris.keio.ac.jp/Profiles/0150/0018887/profile.html
http://researchmap.jp/yashiro_y/
[*12] http://news020.blog13.fc2.com/blog-entry-1610.html
http://blogs.yahoo.co.jp/twwbgs_17365g/61165105.html
[*13] http://www.pref.fukushima.jp/keieishien/kenkyuukaihatu/gijyutsufukyuu/minkan/240517taihidata.pdf
http://d.hatena.ne.jp/warbler/20120907/1346997502
http://astand.asahi.com/magazine/wrscience/2012080300007.html
http://synodos.livedoor.biz/archives/1796844.html
[*14] 放送倫理・番組向上機構(BPO)の放送と青少年に関する委員会は2004年
12月8日に「『血液型を扱う番組』に対する要望」という文書を公表。放送各
局に対して血液型によって人間の性格が規定されるという見方を助長すること
のないよう要望を出した。
http://www.bpo.gr.jp/?p=5125
[*15] http://mainichi.jp/select/news/20121013k0000m040087000c.html
[*16] http://fukumoto.lsx3.net/?%B9%F5%C2%F4%2F%B9%F5%C2%F4#he8852e8
[*17] http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4534043848/tsudamag-22
[*18] http://www.ieice.or.jp/jpn/books/kaishikiji/2007/200701.pdf
[*19] http://www.nhk.or.jp/suiensaa/
[*20] http://www.shiminkagaku.org/archives/2007/02/interview9.html
http://www.chikyu.ac.jp/sci_et_soc/Archives/Document/muramatsu4.pdf
[*21] http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4121502264/tsudamag-22
[*23] http://allabout.co.jp/gm/gc/292750/
http://www.nikkeibp.co.jp/sj/2/column/v/04/
http://www.asyura2.com/0510/asia3/msg/421.html
[*24] http://www.asahi.com/national/update/1014/TKY201210130608.html
http://www.youtube.com/watch?v=5YBHjeFzmZU
[*25] http://www.bio-portal.jp/bio-dictionary/2008/11/asilomar_conference.html
http://jsv.umin.jp/microbiology/main_028.htm
http://www.jseb.jp/jeb/06-01/06-01-003.pdf
[*26] http://hayabusa3.2ch.net/test/read.cgi/news/1349944381/
[*27] http://www.47news.jp/47topics/e/235162.php
[*28] http://smc-japan.org/?p=2900
[*29] http://www.nature.com/news/stem-cell-transplant-claims-debunked-1.11584
[*30] http://mainichi.jp/select/news/20121013k0000e040190000c.html
http://www.asahi.com/national/update/1013/TKY201210130160.html
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