内田樹のメルマガ『大人の条件』より

メディアの死、死とメディア(その3/全3回)

パーソナリティ
内田 樹 Uchida Tatsuru
平川克美 Hirakawa Katsumi

<その1はこちらから>
<その2はこちらから>

 

ビジネスロジックを持ち込んではいけない場所

平川:次の話題に移りましょうか。

最近発見したことがあるんです。前から内田とも、医療や介護、教育などにビジネスロジックを持ち込んではいけないとは話していたけれど、なぜいけないのか、ということがふっと分かったんですよ。

これまで僕らはどういう説明をしていたかというと、社会的共通資本だからいけない、としていました。でもそういうことを言ったら、普通のビジネスだって社会的共通資本だと僕は思っているんだよね。ところが、親父を見ながら思ったことなんだけど、やっぱり商品交換と教育、宗教、医療は違う。これは民主主義とかかわりがあるんですが、売り手と買い手と商品の三つがあれば、すべて商品交換が成り立つように見えるんですね。

だけども、その先がないと実は商品交換は成り立たないんだよ。商品があって売り手がいて買い手がいて、売り手は買い手に商品を渡して買い手は対価を渡す。同時に誠意を渡して感謝の気持ちを受け取る。そういう二重の交換がある。というところまできて、その先になかなか行けなかったのですが、これが繰り返されなければ商品交換は成り立たない。その繰り返していくことの重要な条件として、売り手と買い手が対称である、等価である、平等であることがないと成り立たないんです。商品交換の場においては、常に売り手と買い手はまったく対称的なんですよ。

ところが、医療は施すものと施されるものが非対称なんだよね、完全に。そして教育もそうです。教育を授けるものと受けるものは役割交換ができない。一般ビジネスは必ず役割交換ができないといけないんですよ。ある時に、買い手は何かの拍子に売り手になる。だからこそ透明性が担保されるわけだけれど、もし非対称だと透明性は担保されない。にもかかわらず医療などが成り立つには、施すものと受けるものとの間にある種の信頼関係がなくてはいけない。そこを突き詰めていくと「贈与」しかないんですよね。

贈与というのは、贈与するものとされるものが非対称なのではないか。民主主義以前はすべての交換は贈与に近かったんだよね。人間の中には、贈与でしか成り立たない交換形態があって、それが宗教であり教育であり医療であり介護である、というふうに思ったわけね。

そこに等価交換を持ち込もうとすると、患者と医者が対等である、対称的であるというフィクションを持ち込まないといけない。今インフォームドコンセントなどと言っているのは、本来非対称的なものに対してあたかも対称であるというフィクションを詰め込んでいくからどんどんおかしくなっていっちゃう、という感じがするんですよ。これ最近の発見なんです。前から分かってました?

1 2 3 4

その他の記事

何でもできる若い時代だから言えていたこと(やまもといちろう)
新卒一括採用には反対! 茂木健一郎さんに共感(家入一真)
「たぶん起きない」けど「万が一がある」ときにどう備えるか(やまもといちろう)
「意識のレベル」を測る手技を学ぶ(高城剛)
弛緩の自民党総裁選、低迷の衆議院選挙見込み(やまもといちろう)
受験勉強が役に立ったという話(岩崎夏海)
昼も夜も幻想的な最後のオアシス、ジョードプル(高城剛)
遺伝子と食事の関係(高城剛)
津田大介×高城剛対談「アフター・インターネット」――ビットコイン、VR、EU、日本核武装はどうなるか?(夜間飛行編集部)
フィンテックとしての仮想通貨とイノベーションをどう培い社会を良くしていくべきか(やまもといちろう)
蕎麦を噛みしめながら太古から連なる文化に想いを馳せる(高城剛)
人間関係は人生の目的ではない <つながり至上社会>の逆説的生き残り戦略「ひとりぼっちの時間(ソロタイム)」(名越康文)
「歳を取ると政治家が馬鹿に見える」はおそらく事実(やまもといちろう)
「#metoo」が本来の問題からいつの間にかすべてのハラスメント問題に広がっていくまで(やまもといちろう)
生き残るための選択肢を増やそう(後編)(家入一真)

ページのトップへ