「こんなこともできるのだ」を示すのが指導者の資格
甲野:私は、武道の指導者の、何に一番存在の意味があるのかというと、習う人に「あんなことが本当にできるのだ」という実例を示すことだと思います。習う人が想像もしていなかった技を実際にやって見せることで、「現にこんなことができる人がいるなら、自分もできるかもしれない。そうなりたい」と思わせることが何より重要なのです。
指導者は、指導する者達から「憧れられるような技」が出来ることが何よりも大事なことなのです。技ができないからといって、代わりに怒鳴って言うことを聞かせようとするのは、まったく指導の本質から外れています。
小田嶋:言い換えると、先生が手取り足とり教える必要は必ずしもない。理系の研究者を考えても、人気のある先生は、「教え上手」というより、自分自身の研究に没頭して、周りを顧みないくらいの人だったりする。
甲野:その人の技が抜群に切れるとか、その人自身の技が選手を引退しても、なお向上しているということが一番です。少なくとも武道の場合は、指導者が「そこそこ」ではなく「抜群」に技ができることが重要でしょう。
小田嶋:そう考えると、柔道の代表監督のように、選手に金メダルを取ってもらおうという場合には、指導者には金メダリスト以上の技量が求められるわけですよね。しかし残念ながら、ほとんどの指導者にはその力はない。だから権力的に威圧するしかなくなって、結果、暴力を振るっていると。
甲野:そうでしょうね。「この年で今さらオリンピック? 気恥ずかしいから出ないよ」と言って、実際に立ち合えば代表選手よりも技が切れる、というのが本来の武道の指導者だと思います。
小田嶋:でも、実際にそういう人っているんですかね。
甲野:フランスの馬術界は層がものすごく厚くて、金メダリストよりも上手な壮年の選手がごろごろいるそうです。それが自然な状態だと思います。日本の武道の指導者の例で言えば、仙台で空手の指導をしている長田賢一師範は、もう20年前も前でしょうか、「ヒットマン」の異名をとったフルコンタクト空手の有名選手ですが、現在の方が技が上です。人との接し方も含め、現在の武道の指導者としては本当に頭が下がる珍しい人物です。
小田嶋:「かつて金メダルを取った」とか「好成績を上げた」という「過去の実績」が指導者のパスポートになっている現状がそもそもおかしくて、指導者に求められるのは「今、目の前でズバ抜けた技を見せられるかどうか」である。それなら、選手も、普通の人も納得できる。
素振りを1000回やろうが、気づけない人は気づけない
小田嶋:私、「侍」「武士道」という言葉が大嫌いなんですが、「武道」というのもありますね。武「術」と武「道」、これはどう違うんでしょう。
甲野:確かに「侍」「武士道」は、建前と本音が最も乖離している代表的な言葉でもありますからね。「武道」に関しては、私は一昨年『武道から武術へ』という本を出しました。このタイトルの意味は、「武道」というと、「道」が大事だ、精神が大事だ、という建前によって、自分の技の未熟さをうやむやにしてしまうからです。
小田嶋:ははあ。実力じゃなくて心構えだ、と。
甲野:「術」と呼べるほどの技は、単に数を繰り返せばできるようになる、というようなものではありません。「『術』と呼べるほどの領域まで達する技を目指そう」という願いを込めて、私は自分の取り組みを「武道」ではなく「武術」と呼んでいるのです。
そして、そういう「術」と呼べるほどの技を行えるようになるには、結局、身体の「気づき」を積み重ねるしかないのです。気づきがなければ、質的転換などは起きません。ですから、脅かされて嫌々繰り返し稽古や練習の量を重ねたところで、何もいいことはないんです。
小田嶋:でも、よく「型が重要」と言いませんか。よけいなことを考えず、素振りを1000回もやれば、おのずとなにかが見えてくる、とか。
甲野:まあ、回数をやれば、そこそこの効果はあるでしょう。でも、それでは「術」には届かないということです。「術」と呼べるほどの技というのは、単なる反復練習の延長線には現れない、動きが質的に転換したものです。そういうものを身につけるためには、自発的な研究心が絶対に必要だということです。そして、本来の型はそういうものを会得するためにあるのですが、今ではまったく型の意味が失われてセレモニー化していますね。
私が武術を通して追求しているのは、「人間にとっての自然とは何か」であり、そのために「矛盾を矛盾のまま矛盾なく取り扱う」ということを把握したいと思っています。そうした事から導き出されることの一つとして、武術には「人間にとって切実な問題をもっとも端的に取り扱うもの」という面もあります。
小田嶋:切実な問題を端的に。
武術とは「人間にとっての切実な問題」を取り扱うもの
甲野:一対一で戦うという武術的状況が、さまざまな切実な問題を扱う能力を上げてゆくのです。ただ、人間にとって切実な問題というのは人それぞれですからね。例えば夏の終わりには女の子から失恋相談がよく舞い込んできたこともありました。まあ、たしかに彼女らにとって、これほど切実なものはなかったわけですから。
小田嶋:わはは(笑)。
甲野:イジメも体罰も、それぞれの人が抱える「切実な問題」なわけですが、それらの根本解決は、「人間にとって生きるとは何か」、また「人間にとって自然とは何か」という人間にとっての本質的問題と根本的に向き合うことが必要で、それを頭だけで考えるのではなく、体感を通して考えるために、「武術」は他に較べるものがないほど優れたものを内蔵していると、私は思います。
(終わり)
この記事は、2013年2月14日の日経ビジネスオンラインに掲載されたものを、再掲載したものです。
http://business.nikkeibp.co.jp/article/topics/20130212/243601/
<甲野善紀氏出演イベント>
「奏でる身体―心の音をそのままに―」
甲野善紀×白川真理(フルート奏者)×阪口豊(電気通信大教授)
http://yakan-hiko.com/event.php?id=20130322
<参考記事>
「私が現役であることを思い知った夜」甲野善紀
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