ゲーム研究者・井上明人が考える『ゲーム的快楽』の原理

ゲームと物語のスイッチ

III.ハリーポッターは物語ではない、ドラゴンクエストはゲームではない:純粋な物語/純粋なゲーム

 

以上をふまえて、たとえば『ハリー・ポッター』シリーズは物語ではない。という主張をしてみたい。正確に言えば純粋な物語ではない。話がつまらない、などと言っているわけではない。

『ハリー・ポッター』は、とても説明の多い話だ。魔法学校の規則、魔法の唱え方、魔法世界の歴史等々…。そのため、第一巻を読み飛ばして、二巻、三巻を読もうとすると少しわかりにくい。二巻、三巻から読み始めても、ある程度わかりにくそうな部分については少し説明はついているが、基本的には読み進めていった読者に対して重複する説明は行われない。

そして、何度も魔法が使われ、何度も戦いがあり、何度も魔法学校での夜にベッドを抜け出すスリルを味わうという子供達の冒険の話だ。『ハリー・ポッター』では、こうした繰り返し構造が、多様されている。昨日の夜に壁として立ちはだかっていたものを翌日の夜に、別の手法を用いてクリアーする。最初の戦いでキーとなったものが、次の戦いではあたりまえのように使われたりする。これは『ハリー・ポッター』に限ったことではないだろう。

読者は読み進めるにつれて、繰り返される出来事を覚えていくし、慣れていくし、全く同じ繰り返しでは、面白がらなくなる。そして、繰り返される部分のいくつかを覚えていなくては楽しむことが難しくなってくる。特に、五巻目、六巻目になってくると、はじめのほうのハリーと、敵の勢力とのそれまでのやりとりを忘れていると、ちょっと思い出さないことには厳しいこともあるだろう。

また、あたりまえのことかもしれないが、起承転結が存在しているので、最後の10ページだけを読んでも、そこにたどり着くまでの話の流れを追っていないと、楽しむことはできない。

ざっと、説明すると、『ハリー・ポッター』シリーズというのはこういうものだ。別にとりたてて、ものすごく変わった部分を見つけ出して話をしてみようとしているのではない。『ハリー・ポッター』を読んだことが無いのであれば、何か別のシリーズものの話を思い浮かべてもらってもいい。

ここまでで区別しておきたいことは二つある。(1)順序による理解と、(2)定着による理解だ。「前を読んでいないと、次を読み進めてもわからない」ということ。「何度も出てきたことに慣れておかないと、次を読み進めてもわからない」ということ。この二つのことだ。

もう少し形式的に整理すると、こういうことだ。

 

・Aという事柄が起こり、次にBが起こり、次にCが起こり、最後に結末Dが起こった、という起承転結の展開を持つ物語ABCDがあるときに、結末Dだけを読んでも、物語ABCDを理解できない。しかし、A.B.C.Dを読めば理解できる。(順序的理解)

・事柄X→Y→Z、X→Y→Z、X→Y→Z…と同じことが複数回繰り返されたとき、読み手はその繰り返しに慣れて事柄X→Zというショートカットをするようになる。そして、そのショートカットを前提として、事柄X→Z→結末Dという展開があるとき、物語XZDの結末Dだけを読んでも理解できないのはもちろん、X.Z.Dを通して読むだけでもYが欠落するため理解できない。X→Y→Zに慣れた上でX.Z.Dを通して読めば理解できる。(定着的理解)

 

『ハリー・ポッター』は、小説なので、もちろん一般的な起承転結の構造を備えている。『ハリー・ポッター』シリーズの五巻の結末Dだけをいきなり読んでも、五巻の内容を理解できない。これは、五巻をはじめから読んでいないからだ。これは読む順序を無視したからだ。コンテクストがわからない。

しかし、五巻の内容だけを読んでも、結末Dは十分に理解できない。『ハリー・ポッター』の第一巻~第四巻までの間で、読者の間に読み方のリテラシーが作られているからだ。X→Y→Zという展開から、Yが抜け落ちて、X→Zというショートカットがある。抜け落ちたYの存在を理解できなければ、わからない。

こうした区分は将棋や囲碁、コンピューター・ゲームが作品世界内で重要な役割を担う場合に際立っている。

囲碁や将棋は、一〇〇m走などと違って、世界トップクラスの達人の対戦を見ていても、さっぱり凄みがわからないものだが、『ヒカルの碁』『月下の棋士』『ハチワンダイバー』は囲碁や将棋を題材としながら、囲碁や将棋がわからなくてもどうにか楽しめるようにうまく話の内容を作っている。「歩が弱くて、飛車・角が強い」「王将を取られたら負け」程度の最低限のルールさえわかればどうにか楽しめる。

一方で、『遊戯王』『ドラゴンクエスト ダイの大冒険』といった漫画は、読者のほとんどが対象とするコンピュータ・ゲームを長時間にわたって遊んでいることを前提として描かれている。『遊戯王』の一部のセリフを切り取ってみるとこんな形だ。

速攻魔法発動!バーサーカーソウル!(バーサーカーソウル!?)
手札を全て捨て、効果発動!

こいつはモンスター以外のカードが出るまで何枚でもドローし墓地に捨てるカードだ。そしてその数だけ、攻撃力1500以下のモンスターは追加攻撃できる!!(攻撃力1500以下!? ハッ……あの時……)

『遊戯王』を遊んだことのない読者には、何を言っているか、ほとんど理解できないだろう。『遊戯王』を数十時間は遊んだことがあるが、その程度の『遊戯王』世代(一九八〇年代後半~九〇年代前半生まれ)でない人間にとっても、ほとんど何を言っているかわからない。最初から読んでいけば(一応)何を言っているのかわからなくない配慮が最低限はなされている(のだろう)が、これは読む「順序」だけでは、読み方の「定着」を覆すことができないということの、顕著な事例だ。少なくとも筆者はさっぱり理解できなかった。

『遊戯王』は、読む順序を守っただけでは、ほとんど読むことができない。X→Y→Zを、X→Zというショートカットができなければ意味がわからない。『遊戯王』は、物語であると同時にゲームでもあることを了解した時に、はじめて読むことが可能になる。

『ハリー・ポッター』は、第一巻から読めば、X→Y→Zを、ショートカットすることができる程度に、繰り返し登場する要素についての配慮を備えている。魔法学校や、魔法の世界の歴史が登場するとは言っても、そこまで複雑すぎず、覚えることが可能な程度のペースで配慮がなされている。だが、第五巻をいきなり読み、すべてを理解することはできない。『ハリー・ポッター』はシリーズとしての繰り返し構造を持っている。この繰り返し構造の中で、順序に沿った理解という以外に、この世界の決まり事を定着して理解しておくことが要請されている。

『ハリー・ポッター』シリーズ全体を一つの小説とみなせば、『ハリー・ポッター』は順に読んでいくことで読むことができる。しかし、『ハリー・ポッター』シリーズのうちのどれか一つだけをランダムに抜き取っても、『ハリー・ポッター』を十分に読むことはできない。物語が物語でなくなる地点―――繰り返す事象への「慣れ」を前提とすることが『ハリー・ポッター』を理解することを可能にしている。

そして、『ハリーポッター』に適用したこのロジックを裏返すことで、『ドラ
ゴンクエスト』はゲームではない、という主張を作り出すことが出来る。正確に
言えば純粋なゲームではない。すなわち、『ドラゴンクエスト』というゲームは……

 

<続きはメールマガジン「ほぼ日刊惑星開発委員会 2014.7.23 vol.119」をご購読ください! なお、この井上明人さんの論考ほか、「ゲーム」というジャンルを総括し、その現代的な可能性を歴史的・批評的にまとめたPLANETSのナンバリングタイトル「PLANETSvol.7」はAmazon Kindleストアで絶賛販売中です。

 

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