勝負所で指が震える
羽生善治さんは、たくさんの逸話に彩られているが、中でもぼくが好きなのは、「終盤になると指が震える」というものだ。
羽生さんは、勝負所の終盤になると、駒を持っていられないほど指が震える。あまりにも震えるので、あるとき記者が「なぜ震えるのか?」と尋ねたことがあった。すると、羽生さんはこう答えた。
「怖いからです」
羽生さんは、手を差し間違うのが怖いから、指が震えているというのだ。
それを聞き、ぼくは度肝を抜かれた。なぜなら、棋士に限らず勝負に携わる人間は、まずはじめに「恐怖心を克服すること」を教わるからだ。
通常、恐怖心は勝利を妨げる一番の敵だと考えられている。よく「自分に勝つ」と言ったりするが、それは言い換えれば「恐怖心を克服する」という意味なのだ。勝負に携わる者は、誰でも長い年月をかけて自らの恐怖心――負けることへの恐れを克服しようとする。それを心の中から排除して、つとめて冷静でいようと心がける。
ところが、将棋の数百年の歴史の中でも最も勝負強いとされている羽生善治さんには、今でも恐怖心が脈々と息づいている。しかもそれが、勝負所である終盤に、端から見てもはっきりと分かる形で姿を現すのだ。羽生さんは、プロ棋士の世界でもう30年もトップとして君臨しているにもかかわらず、いまだに恐怖心を克服できていないのである。
では、なぜ羽生さんは恐怖心を克服しないのか?
実は、それこそがこの項の求める答えなのだが、羽生さんは、それを克服してしまうと、同時に「感性」の力も失われてしまって、だいじなところで判断が間違うから――というのである。
羽生さんは、それを「心の柔らかさ」と表現している。心が柔らかくないと、感性の力が弱まってしまう。だから、恐怖心を克服すると、直感力は鈍ってしまうのだ。
しかし、恐怖心を持ったままだと、心が柔らかくなり、直感力が高まる。感性のセンサーが働いて、危険を敏感に察知できるようになるのだ。
ところで、なぜ羽生さんは、そういう子供の心を持ちながら、恐怖心に飲み込まれてしまわないのか?
それは、前項でも述べたことなのだが、「離見の見」を駆使しているからだ。
羽生さんは、自身の中に「恐怖する自分」とは別に、それを冷静に見つめる「もう一人の自分」を持っている。その「もう一人の自分」が、勝負所でも冷静さを失わないため、感性を持ちつつも、それに飲み込まれるのを防いでくれているのだ。
勝負所で冷静さを失わない「柔らかい心」
羽生さんは、柔らかい心のことを「子供のような純粋さ」とも表現している。羽生さんに限らず、古今東西の競争に長けた人は、子供のような感性の力を駆使し、勝負に打ち勝ってきた。
例えば、ピカソの老人になってからの有名な言葉に、「ぼくは数十年かけてようやく子供のような絵を描けるようになった」というものがある。感性というのは、生まれたときには誰でもそれを高いレベルで有しており、それがあると、喜怒哀楽が大きくなるのだ。
だから、子供のような喜怒哀楽を抱けるようになると、感性の力も強まり、それがセンサーの役目を果たしてくれ、だいじなところで正しい判断ができるようになる。羽生さんも、子供のような喜怒哀楽で将棋に取り組んでいるので、棋界のトップに君臨できているのだ。
このように、喜怒哀楽は高いレベルの競争になると、欠かすことのできない武器となる。だから、子供の頃には誰でも持っていたそれを、大人になって失ってしまっていたとしたら、ピカソのように努力して取り戻す必要があるのだ。
では、どうやったらそれを取り戻すことができるのか?
次回は、そのことについて考えていきたい。
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岩崎夏海
1968年生。東京都日野市出身。 東京芸術大学建築科卒業後、作詞家の秋元康氏に師事。放送作家として『とんねるずのみなさんのおかげです』『ダウンタウンのごっつええ感じ』など、主にバラエティ番組の制作に参加。その後AKB48のプロデュースなどにも携わる。 2009年12月、初めての出版作品となる『もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの「マネジメント」を読んだら』(累計273万部)を著す。近著に自身が代表を務める「部屋を考える会」著「部屋を活かせば人生が変わる」(累計3万部)などがある。


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