※この記事は紀里谷和明のメールマガジン「PASSENGER」vol.012(2014年11月21日発行)からの抜粋です。
生き方を職業から切り離す意味とは
俺は「システム」に囚われるのはもうやめよう、という話をよくします。
一方で、こうやって大上段から責めてもしょうがないということもわかっている。「システム」を否定するということは、自分が積み上げてきたものを否定することですから。
あるシステムの中に入ってある程度の年齢に達すると、やっぱり「諦めて」しまうケースが多い。
そもそも、企業の一員として働く中で「自分が属しているシステムが、間違った方向に進んでいるんじゃないか」と、毎日自問自答し続けられる人間なんて、ほとんどいないと思うんです。
極端な話、武器の製造会社で働きながら自分の家族を養い、子どもを大学にまで行かせたという人がいたとして、その人が作った武器によって地球の裏側で暮らしている人間が、大勢、殺されてしまうという現実がある。
しかし、そのときに、家族のために実直に仕事をしていただけの人を責められないですよね。家ではいいお父さんであり、いい旦那さんであったかもしれない。その人の人生が間違った人生かというと、そうではない。
きれいごと抜きにして、純粋に「人間を救っている」「人間を幸せにしている」仕事が、今、巷にどれくらいあるんだろう? ということですよね。
本当は必要じゃないものも必要だと思わせなければ、企業が、業界が儲からないという現実がある。アパレル業界なんて、先進国向けの低価格のファストファッションは途上国で生産されていたりするわけで。その陰に大規模な搾取が行われていたりする。
今は、問題が明らかになっている原発だって、その産業で食べている人が何千人、何万人といたからこそ、なかなか顕在化しなかったわけですよね。
ビジネスが巨大化してくると、ユーザーの健康や幸せよりも利潤を追求するようなシステムが生まれてくる。それは製薬だろうが外食だろうが、どの業界でも同じだと思うんです。
システムが方向を間違えていることに気づいても、それを認めてしまうと、自分が積み上げてきたものを否定することになってしまう。今までの人生がすべて無駄だった、ということにもなりかねない。
自分をそこまで否定するのは、よほど精神力がないと難しい。
そうならないためには、防衛策としてどうすればいいのか? と考えると、「生き方」を「職業」から切り離して考える必要があるんじゃないかと思うんです。
自分が属しているシステム、たとえば勤めている企業が進むべき方向を間違っていることがわかったとして、その人に「じゃあ、明日会社辞めましょう」と言ったところで、簡単には辞められない。
「自分の子どもが学校に行けなくなる」「マイホームがなくなる」という経済的な不安もあるだろうし、自分自身がシステムからドロップアウトしてしまうことに対する社会的な恐怖もある。
けれど、社会的な恐怖に関しては、自分の「生き方」を「職業」から切り離しておくことで、少なくとも相対化されるんじゃないだろうか。
そうした変化は、もしかしたら「無責任さ」につながるのかもしれない。けれど、これからの時代は、過剰に自分を職業と同一化させないほうがいいんじゃないか。これは同時に自分自身に言い聞かせていることでもある。
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