※城繁幸メールマガジン『サラリーマン・キャリアナビ』★出世と喧嘩の正しい作法Vol.092(2014年09月26日)より
もし新聞業界が年俸制で記者がばんばん転職する世の中だったら
1997年、朝日新聞社は、高まる慰安婦報道の疑惑に対処するため、社内に調査チームを作って自社の報道を検証するプロセスに入っていた。昨年入社したばかりの有野も、その専従チームの一員だ。初めての大きな山に、有野自身やや緊張気味の日々を送っている。
とはいえ、有野自身は青っちょろい新人くんというわけではない。週刊誌記者、地方紙記者というキャリアを10年間積み重ねたたたき上げで、朝日新聞社には中途で入社した立場だ。むしろ朝日しか知らない生え抜き記者を心の底ではバカにしてもいた。
「使った経費は向こうの方が多くても、ジャーナリストとしての腕なら俺の方が上だ」
特に、週刊誌での事件記者としての5年のキャリアは、今の仕事にも大いに役立っている。
さて、プロジェクトがスタートして二か月がたち、それなりに過去の経緯が明らかになる中で、どうやら一連の植村報道は明らかな誤報らしいという結論がわかってきた。しかも、気付いていながらあえて飛ばし記事を書いた節もある。となれば、後はどう報告するかだ。リーダー役の有野は報告書の青写真をデスクに提出し、アウトラインを説明した。
「以上のように、当社の過去の一連の報道は明らかな誤報であり、ここは速やかに事実を明らかにしつつ謝罪訂正すべきです」
「し、しかしだな、それでは本紙の信用は失墜するぞ……」
朝日新聞のかつての終身雇用時代に入社し、朝日しか知らない40代デスクは、社の信用を傷つけることを過剰に恐れているようだ。だが、腕一本でこの業界を渡り歩いてきた中途入社第一世代の有野には、そうしたしがらみは一切ない。
「事実を明らかにしてこその信用でしょう。とりあえず、報告書はあくまで報告書として手を加えずに発表するというのが現場の意志です」
「分かった……だがその前に、一緒に会っておくべき人がいる」
翌日の夕方、本社外報部長室に並んで立つデスクと有野の姿があった。デスクが報告書の原案を音読し、このプロジェクトの最終決定権を持つ外報部長の清田に説明する。説明が終わると、眠たそうな目で聞き入っていた清田がゆっくり口を開いた。
「……で、要するにすべて誤報であったと認め、謝罪しろというわけだね」
「は、はい……」
「ところで君は、その一連の記事の発端となる記事を書いたのが私であることを知っているのかね? この報告書は私に腹を切れと迫るようなものだぞ。それに、君は我が社で働く5000人の社員の生活に対して責任が持てるのかね」
「そ、それはですね……」
しどろもどろになったデスクを見かねて、かばん持ちに徹するよう指示されていた有野が口を開いた。
「その通りです。記事が間違っていた以上、記者は腹を切るべきです。社員の生活? それは個人の責任であり、最後は政府が面倒を見ればいいだけのこと。我々記者はジャーナリズムに対してだけ責任を持つべきだというのが私の意見です」
「き、貴様は日韓関係にひびが入っても、それでも責任はないと言い切れるのか!?」
「今ここで膿を出し切れば、その時は21世紀に真の友好関係が築けるでしょう。でもここでまた嘘の上に嘘を塗り重ねれば、将来、日韓関係はひび程度ではすまず、朝日の信用も地に落ちるでしょう」
清田の目が大きく開かれ、まるで別世界の珍獣でも見るように有野を見つめた。
「この私が、いや、朝日新聞の外報部長が、そんなことを許可できると思うか?」
「もし報告書を書き換えるというのであれば、私は朝日を退社し、個人名で発表する覚悟です」
年俸制が一般化して以降、新聞社では基本的に記者個人の記名記事が一般的となっている。内部告発的なリークはそれが真実であるならむしろ個人のキャリア上はプラスだ。優秀な記者としていくらでも転職先はあるし、日本版のピューリッツァ賞とも呼ばれる日本新聞協会賞がもらえる可能性だってある。
逆に、誤魔化したり嘘を書くことは、記者としてのキャリアにとって致命傷を意味する。仮に将来、別の後輩記者が誤報問題の真相をリークすれば、今度は自分が誤報もみ消しに手を貸した側として糾弾されかねない。有野にとっても絶対に譲れない一線だった。部屋の中に重苦しい空気が流れた。
やがて、大きく息をつくと、清田はまた以前の眠たげな目に戻った。
「分かった。プロジェクトの思う通りの報告書にするといい。ただし、一つだけ付け加えてほしい。最終責任はすべて、最初に記事を書き、そして当時、植村の上司だった私にあると」
翌月、朝日新聞は一面にて、過去の一連の報道に対する訂正と謝罪、および、関係者の処分を発表した。最も重い処分を受けたのは外報部長の清田で懲戒解雇だ。そこまでの処分が必要かどうかは社内でも議論になったらしいが、本人がすべての責任を引き受けたということを、有野は後で知った。有野には理解できないが、恐らく、昔の朝日人らしい最後のご奉公ということだったのだろう。
月曜日、出社すると、早速リクルート目的のメールが数件、メールボックスに届いていた。ちょっと迷ったが、結局、有野は目を通さずにすべてそのままゴミ箱に放り込んだ。少しだけだが、有野はこの会社が好きになりそうな気がしていた。
※この記事は、城繁幸メールマガジン『サラリーマン・キャリアナビ』★出世と喧嘩の正しい作法Vol.092(2014年09月26日)<朝日新聞的空気の研究><ショートショート:もし新聞業界が年俸制で記者が ばんばん転職する世の中だったら><Q&A: 公務員が意識しておくべきキャリ アデザインのポイントは?>の一部です。
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