遠藤周作という人
こうした「跳ぶ」ということと、信仰が持つ「怖さ」ということに関連して私が真っ先に思い出しますのも、遠藤周作なのです。
以前もこの往復書簡にて書かせていただきましたが、遠藤周作という人は、カトリックの教義という観点から見れば、最後まで「跳べなかった」、いや「跳び切れなかった」人ではないかと思うのです。
彼が作品のテーマとして「隠れキリシタン」を取り上げた理由にはいろいろなものがあるのでしょうが、彼らのように徹底的な弾圧を加えられても信仰を守り通した人間、イエス・キリストに命を捧げて殉教していった人間たちに対する、ある種の「憧れ」のようなものが遠藤周作のなかに強くあったのではないかと、今の私は考えています。
『沈黙』の舞台は江戸時代ですが、明治時代の初期にも、九州などでは隠れキリシタンへの大弾圧があったそうです。長崎県の「浦上四番崩れ」や「五島崩れ」と呼ばれる大弾圧が記録に残されています。その最中では、約20平方メートル六畳二間ほどの大きさの牢獄に、8ヶ月間ものあいだ隠れキリシタン約200名が監禁され、坐ることも動くこともできない状態のまま放置され、飢えや病によって42名が殉教するという凄惨な事件もあったそうです。ほんの、150年ほど前の日本で、明治維新後の「近代化」が始まった日本で、これほどの宗教的な弾圧が行われたのです。しかし、これほどの状況に置かれてもなお、隠れキリシタンたちは自らの信仰を棄てず、殉教する道を選び取りました。
信仰というものは、「この世」を徹底的に相対化してしまうがゆえに、ここまでの行動を人間にもたらすことがあるのです。イエス・キリストを信仰し、迫害のなかで死んでいった隠れキリシタンの話に胸を打たれる人もいれば、信仰というものが引き起こす「異常さ」、テロリズムにも結びついていく「恐ろしさ」に嫌悪感を持つ人もいることと思います。
それが自然なことだとも、私は思います。信仰というものが持つ、強烈な「逆説」のようなものをおそらく、こうした弾圧時における殉教という事態が最も端的に表していると思うからです。死というものと直接に結びつく信仰という領域において、そのなかでも、特に「殉教」という出来事において、甲野先生がよく仰る「命を超えたものに賭けてこそ、命が最大限に輝く」という逆説的な出来事が、もっとも「研ぎ澄まされた」かたちで出てくるのではないでしょうか。
「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。わたしは敵対させるために来たからである。
人をその父に、
娘を母に、
嫁をしゅうとめに。こうして、自分の家族の者が敵となる。
わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである」
(マタイによる福音書:10章34節-39節)

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