甲野善紀
@shouseikan

対話・狭霧の彼方に--甲野善紀×田口慎也往復書簡集(15)

「狂信」と「深い信仰」を分ける境界

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<田口慎也氏から甲野善紀氏への手紙>

甲野善紀先生

アメリカからの帰国直後の時期にも拘らず、お手紙をお送りいただき本当にありがとうございました。今回頂いたお手紙を読ませていただきながら、私は「縁」というものについて、信仰というものが引き起こす「命を超えたものに賭ける」という事態の激烈さについて、そして「悪の自覚」について、自分なりに考えました。拙い箇所もあるかと思いますが、自分の言葉でそのことについて書かせていただきたいと思い、今回もお手紙をさせていただきました。

甲野先生がお手紙のなかで仰られていた「教えそのものと一体化する」ということと、「その教えで説かれている事が実際に起こるかどうかの実証で確認しつつ信じている」ということのあいだには、決定的な断絶があるのだと思います。聖書の中でも「人はしるしを欲しがる」という話が出てきますが、「奇跡的な事象に惹かれる」ということと、ある教えを深く信仰するということは、全く別の次元の話なのでしょう。

キルケゴールが “leap”、ある種の「跳躍」が信仰にとって必要であるということを述べていたように思いますが、この「跳躍」は、さきのお手紙のなかの浅野和三郎のような「腕のいい医師を信じているレベル」、論理的に考えて妥当であるとか、科学的に検証可能かどうかといったことから起こることではないのだと思います。

いや、そうした思考や検証を通して考え抜くことも「きっかけ」のひとつにはなるかもしれませんが、まさに「信仰と一体化する」といえるレベルのところまでの「跳躍」を行うには、ある種の、それこそ生れついた「センス」のようなものが必要とされるのではないでしょうか。もちろん、人生経験や信仰上の体験を重ねることによって変わる部分もあるのでしょうが、私にはどうしても、宿業として「跳べる人間」と「跳べない人間」がいるような気がするのです。まさに、甲野先生のお手紙のなかにある「本当に深い信仰というか、悟りを得る者は才能と縁のある者であり、縁のない者は仕方がないし、縁の薄い者は、ある程度のところまで行ければ、それはそれでよしとするしかない」ということです。

何度かここでも書かせていただいた牧師さんに以前、その「跳ぶ」ということについて伺ったことがあります。信仰を持つに至ったときの状況、そこに至るまでの心境を論理的に説明できるものなのかどうか、当時の私は知りたかったのです。するとその牧師さんは即座に、「『跳ぶ』という言葉はいいですね。僕も『跳んで』います。いつ跳んだのかはわかりません。でも、ある時点で跳んだのは間違いないです。それは論理的に考え抜いて納得したとか、そういう次元の話ではないです。」とお答えになりました。

「跳んでいる」ことを、何の引け目もなく、かといって衒いもなく、ひとつの事実として認められた姿を見て、本当にこの牧師さんにとっては信仰とは特別な何かではなく、日常的な、きわめて「自然な」ものなのだということがわかり、感動した記憶があります。

また別の機会には、「最終的にある人間が信仰を持つようになるのは『主の働き』によるものであって、我々牧師の力ではない」とも仰っていました。キリスト教の話から少しずれますが、この「信仰を持つか否かは人間の意志や努力によって決定されるものではない」という話は、親鸞にも通じるものであると思います。親鸞もまた、「法然上人の教えを信じるというだけであり、それ以外に信仰の根拠はない」「あなた方が信仰を棄てることを止めることはできない」といったことを語っています。

「親鸞にをきては、たゞ念仏して弥陀にたすけられまひらすべしと、よきひとのおほせをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり」
「このうへは、念仏をとりて信じたてまつらんとも、またすてんとも、面々の御はからひなりと……」
(『歎異抄』第二章)

これも「信仰を教え広める立場の人間であったとしても、究極的には他者の信仰に介在することはできない」ということを伝える逸話だと思います。信仰を持つか持たないかということは、ある人間の意志や努力だけではどうしようもない面があると思うのです。

 

「跳んだ」後に

では、「跳んだ」後に、信仰を持った後に重要なこととは何か。私は、跳んだうえでもう一度「こちら側」を向けるのかどうかという点だと思います。それが、甲野先生のお手紙の表現をお借りすれば、信仰によって「自己破滅的な行動」に至るかどうかの境目になるのではないかと、私は思うのです。

『イエスはなぜわがままなのか』という本を書かれた岡野昌雄さんは、大学時代の友人に「おまえクリスチャンだろう。神様がいるって信じているじゃないか。そういう答えを見つけちゃったヤツが、どうしてまだ哲学をする必要があるんだ」と問い詰められ、それに対して答えることができずに悩み、苦しまれたときの経験を書かれています。そして、現在の岡野さんは以下のような考えを持たれているそうです。

「信じるということは、ありとあらゆる思想や宗教を勉強し、すべてを理解したうえで、これが一番いい、と選ぶことではありません。また、人生の難問すべてに対して有効な最終的な答えを見出した、といったようなことでもありません。

(中略)洗礼を受けてから少しずつわかってきたのは、信仰とは出発点であって、けっしてゴールではないということです。

(中略)聖書に「信仰とは望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」(ヘブライ人への手紙11章1節)とあります。信仰もまた、まだ見ぬものを、しかしそこにあることを確信しつつ探求し続けることなのです。」
(『イエスはなぜわがままなのか』)

最終的には、ある信仰を持つか持たないかということは「縁があるかないか」ということ。そして、信仰を持った後に、それを「始まり」として、もう一度「信仰の外側」を向くことができるか否か。

これが、いわゆる「狂信」と「深い信仰」を分ける境界であり、信仰が持つ「怖さ」、すなわち「この世」を相対化してしまうが故に「破滅的な行動」に至るという事態の手前で踏み止まれるか否かということと深く関わるのではないかと私は思います。

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甲野善紀
こうの・よしのり 1949年東京生まれ。武術研究家。武術を通じて「人間にとっての自然」を探求しようと、78年に松聲館道場を起こし、技と術理を研究。99年頃からは武術に限らず、さまざまなスポーツへの応用に成果を得る。介護や楽器演奏、教育などの分野からの関心も高い。著書『剣の精神誌』『古武術からの発想』、共著『身体から革命を起こす』など多数。

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