「相手を思い通りにしたい」という気持ちにどう折り合いをつけるか
人は無意識のうちに、他人と自分とを比べています。そしてそのたびに、怒りや様々な感情を生み出している。その感情が肉体に現れてくると「痛み」となって感じられるようになります。
例えば、自分のことを嫌っている人と話していると、背中に鈍痛を覚えることがあります。その「痛み」を緩和しようと思えば、その相手とどうにかして和解していくしかない。では、どうやったら、自分のことを嫌っている人と和解できるでしょうか?(しかも、それが理不尽な理由であったとしたら?)
もちろん、相手が反省し、自分の態度を改め、あなたのことを嫌うのをやめてくれれば、痛みは緩和されるかもしれません。しかし残念ながら、そう都合のいいことは起きてくれません。少なくとも「相手を謝らせよう、相手の態度を変えさせよう」といった、「相手を操作してやろう」という気持ちをあなたが持っているかぎり、相手と和解することはできないし、あなたの背中の鈍痛も、緩和されることはないんです。
人と人とが和解できるのは、互いが「自分にも悪い部分があったなあ」と心底、感じあったときだけです。つまりは、相手の問題ではなく、自分の問題として、そのことを引き受けるところからしか「和解」というのは起こりえない。
こんなことをいうと、「なぜ自分のことを憎んでいる相手を許さなければならないのか」と思われるかもしれませんね。でも、そういう人は、「憎んでいる本人もまた、その憎しみの感情によって傷つき、痛みを覚えている」ということを理解する必要があります。
あなたは「憎まれる」痛みを抱えているかもしれないけれど、相手もまた「憎む」ことによる痛みを抱えている。それを解くためには、自分のほうから和解への一歩を踏み出すしかないのです。
しかし、多くの人はこのとき「相手の誤解を解こう」と考えます。相手が自分を憎んでいるのは誤解によるものだ。その誤解を解けば、きっと相手の憎しみはなくなるはずだ、と。
実際、そういうこともあるでしょう。でも、「相手の誤解を解こう」という試みは、残念ながらうまくいきません。なぜならそれもやはり、「相手を自分の思い通りに操作しよう」という発想からスタートした働きかけだからです。
「自発性」という本能
人間には自発性、というものがある。簡単に言えば「人から言われたとおりには行動しない」という本能みたいなものがあるんです。相手を操作しよう、という試みは、だからことごとく失敗することになる。
ではどうしたらいいか。「わかりました! これからは相手を操作しないように気をつけます!」という人もいるんですけど、これもまたうまくいきませんね(笑)。「相手を変えよう」という気持ちというのは、けっこう無意識に出てきちゃうものですからね。
私達ができることは、まず、自分の中に「相手を操作したい、相手を自分の思うとおりに動かしたい」という気持ちが存在していることを認めること。そうすると少しは、謙虚な気持ちで相手とコミュニケーションを取ることができるんです。
これは小さな一歩ではありますが、苦手な相手との和解へ向けた可能性を開く、という意味では大きな前進です。謙虚な気持ちで「ごめんね。もしかすると、これも自分勝手な欲かもしれないけど、このことはわかってほしいんだよね」と、心から口にできるようになると、相手も態度を変化させ、和解できる可能性が出てきます。
痛みのほとんどは、自分が作り出したもの
相手から嫌われることによって、背中に痛みが生じるぐらいストレスを受けた。それは事実です。しかし、それだって突き詰めれば「嫌われていると感じて傷ついた」あなたの問題です。もちろん、相手の言動によって直接的に傷つくことがないわけではありませんが、その痛みは「自分が嫌われている」と感じたときに受ける、心と身体に受けるダメージと比べれば小さなものなんです。
「痛み」のほとんどは、自分が自分で作り出したものだということに気づく。やってみるとわかるけれど、これはけっこう、辛い体験です。でも、それに気づくことは、人間関係の問題を解決していくうえでは、大きな一歩となります。
なぜなら、悲しみ、憎しみ、辛さ、孤独感……そういったさまざまな感情もまた、自分が作り出したものだと気づくようになると、不思議なことに、相手があなたに向ける視線や態度も、自然と変化していくからです。
「自分の心持ちを変えると、相手が変わる」というのは、「道徳」の話ではなく、心理学的なレベルでの「現実」なのだ、ということはぜひ覚えておいてください。
例えば、小学校の頃を思い出してみてください。先生が上から目線で操作的に関わっているかぎり、子供の心は動いてくれませんよね。しかし、明るい気持ちで、子供の可能性を信じて接すると、自然と子供たちも動き始める。
それはたぶん、同じような言葉かけをしていても、言葉にならないレベルの、微妙なニュアンスが違っているからです。真言宗の開経偈に「無上甚深微妙法」という言葉があります。これは「じんじんみみょうほう」と読み、直訳すると「深く深く、微妙な法である」という意味なんですが、僕はこれを「大きな変化は<微妙な違い>によって生じる」と解釈することも可能だと考えています。
人間は一人ひとり、尊い主体性を持っています。これはもちろんエゴですから、仏教では、最終的にはここから脱していかなければいけない。でも、このエゴをしっかり正面から認めておかないと、そこから抜け出すこともできないんです。
「ダメだよ!」という時、そこに慈愛やユーモアのセンスがあれば、そういうことを子どもはすぐに感じ取ります。「なんとかこいつを変えたい」と思っている先生と、「変わってほしいな」と思いながら自分自身の接し方に思いを配り、工夫している人、つまりその「変わってほしい」というエゴをふっと消して、対応のみを残す人とでは、子どもの反応が変わってくる。言葉が同じでも、伝わり方が違う。
先生の、「おいしいね」「さようなら」「お母さんによろしくお伝えくださいよ」「プリントちゃんと取った?」というひとつひとつの些細な言葉のすべてが、すべて子どもにとっては「教え」なんです。少なくとも、10歳までの子供については、間違いなくそういう部分がある。
「これを変えなければいけない、こうでなければならない」じゃなくて、「まず自分の心を整えてから、相手にお願いしよう」という気持ちを持つ。簡単に言うと、自分自身が毎日もっと喜んで、感謝して、幸せに過ごす。そうすれば、必ず相手は変わってくる、ということです。
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