茂木健一郎さんの新刊『ありったけの春』 に収められた46のストーリーからひとつずつ、1週間限定で公開していきます。
定価1600円+税
夜間飛行 2017年6月12日刊
読めば、きっと世界が愛おしくなる。
読む人すべての過去と未来をつなぐ、“青春の書”決定版!
あなたの記憶が色づく、珠玉の46篇。
心を深く打った、アメリカの友人が口にした“ある言葉”
ときどき会って話すアメリカ人がいる。
彼はシンガポール在住なのだけれども、なぜか気が合って、学会で話したり、東京やシンガポールでお酒を飲んだり、いろいろな意見を交換する。
彼も脳科学や意識の問題が専門だけれども、いつも小難しい話ばかりしているわけではない。
女性が「天使」になって飛んでワインを持ってくるバーが気に入って、連日通ったこともある。森羅万象、それこそ政治から経済まで、ありとあらゆることを話して、飽きることがない。
先日、彼が東京に来たとき、一緒に秋葉原を歩いた。
メイドの格好をした女の子たちを見て、目を丸くした彼。もっとも、好奇心を抱いたのかどうか、はっきりとはしなかったが。東京にも住んでいたことがあるという彼。
秋葉原を散策した後、その流れでお気に入りだという神田の「やぶそば」に行った。お酒を飲みながら肴をつまんで、それからそばを食べた。
その発言があったのは、確か、そば湯を飲んでいたときだったのではないかと思う。ウォールストリートのデモの話題になって、何がどうなっていったのか、突然、彼は、「お金を持っていれば、鈍感でも大丈夫だからね」と言った。
えっ? どういうこと?
私の脳裏に、何人かの著名人の顔が浮かんだ。
「お金を持っていれば、鈍感でも大丈夫」。
その言葉が、脈絡なく私の心を打って、私はしばらくそのこと以外は考えられなくなったのである。
普通は、お金を持っているか、持っていないかということと「鈍感」であるかどうかということは関係がないと思うだろう。お金を持っていても、敏感な人はいる。
たとえば、美術品や、レストランの選択や、服の趣味においては、むしろ、お金を持っていた方が、感性を磨くことができる、そんなふうにも考えられなくはない。
それにもかかわらず、彼が「お金を持っていれば、鈍感でもだいじょうぶ」と言ったことに、私は、一面の真実があるような気がして、別れた後もずっとその感触が残っていた。
なんとはなしに、「ウサギ」のイメージが浮かんだ。
野原の片隅で、いつも敏感に周囲を見渡しているウサギ。自分の命を守り、明日へとつなぐためには、いつも耳をそばだて、周囲を見渡して、とにかく鋭敏でい続けなければならない。
同じようなことが、「お金がある」「お金がない」ということにもあるのかな。
「欠落」こそが、私たちの人生を豊かにしていく
経済的に余裕が乏しいと、あれこれと工夫をしたり、買い物のときに気をつけたり、自分があるものを本当に欲しいのかどうか自問自答したり、いろいろ細やかなかたちで、神経を使わなければならない。
一方で、お金を持っている人は、あまり気にしない。きっと、空気のように感じているのだろう。その結果、お金のありがたさに対する感覚が、どうしても鈍っていく。そんなことは、確かにあるように思う。
もし、お金をたくさん持っていることが、鈍感さにつながるとしたら、人生はやはり根本においてプラスマイナスゼロなのかもしれない。そんなことをぼんやりと考えた。
愛について連想が飛んだのは、それからしばらく経ってからのことだった。
知り合いの学生の一人に、不器用なやつがいて、どうやら、まだ彼女がいないらしい。ごにょごにょと言っているが、生涯において、今まで彼女がいたことが、どうやらないらしい。それで、彼のことをいろいろ見ていて、先日の「やぶそば」での会話を思いだしたのである。
愛も同じで、愛に恵まれ過ぎている人は、どうやら鈍感な気配がある。
愛に恵まれず、あこがれて、あれこれと想像して、夢見て、そして結局は何にも出会わない。そんな人が、かえって、愛についての純粋な観念に到達するということは、あるのではないかと思う。
たとえば、私たちには永遠とか神だとか、そのようなことは縁遠い。
しかし、だからこそ儚い命のなかで、あこがれとして考える。永遠も神も沈黙を守っているけれども、それがゆえに思いはつのる。愛は、まだしもこの地上で満たされるかもしれないけれども、永遠や神は満たされることが原理的にできない。
欠落って、そうやって私たちの人生を豊かにしていくんだね。
女に振られて法学部に行って、法律の勉強をしていたころ、当たり前だけれども、現金は占有者が所有者と推定されると習って、そんなものかと思った。宝くじに当たるのか、企業を興すのかはわからないが、お金は、それが行った先の人のものになる。
してみると、お金は、「神」や「永遠」の対極にあるものらしい。もちろん、愛は、もっと厄介で深緑色の淵に満ちているけれども。
彼とシンガポールで行った天使の飛ぶバーは、信じられないほど優雅で、上品で、他のどこでも見たことがないものだった。経済原理では、絶対に間尺に合わない。きっと、シンガポールのお金持ちが、趣味で作った店なのだろうと言っていた。
だからこそ、天上の気配がしたのだろうな。
地上で幸せになるためには、絶対に手に入らないものについて考えるのが良い。
(『ありったけの春』より)
<読者感想>
人生って、痛々しくて切ない。でも、愛おしいなあと思った(20代女性)
この熱さはなんだ? 心がヒリヒリする。(30代男性)
この本は、茂木さん版『窓ぎわのトットちゃん』だ!(40代女性)
『ありったけの春』
茂木健一郎 著
四六版並製、304ページ
ISBN-13: 978-4906790265
定価1600円+税
夜間飛行 2017年6月12日刊
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茂木健一郎
脳科学者。1962年東京生まれ。ソニーコンピュータサイエンス研究所シニアリサーチャー。東京大学理学部、法学部卒業後、同大学大学院理学系研究科物理学専攻課程修了。理化学研究所、ケンブリッジ大学を経て現職。『脳と仮想』(小林秀雄賞)、『今、ここからすべての場所へ』(桑原武夫学芸賞)、『脳とクオリア』、『生きて死ぬ私』『「赤毛のアン」で英語づけ』『教養の体幹を鍛える英語トレーニング』など著書多数。
目次
1章 あの日あのとき、声がかすれていた
生きることにまだ慣れてないから/デコチャリの幻/丸薬を飲み込めなかった/火をつけてたやつが消す側に回って/他
2章 おじさんとモルフォチョウ
チョークの神さま/ドレス・コード/私の志集/ビールの香り/分裂していた私を救ってくれたもの/おじさんとモルフォチョウ/地上で幸せになるためには、絶対に手に入らないものについて考えるのが良い/他
3章 桜の樹に追いつくこと
ジャンヌに呼ばれて/ちゃぶ台返しくらいさせてくれよ科学の情熱/パリ祭にて、自由について考える/権力者とパウル・クレー/他
4章 裸の王様
赤の復活/龍とセミ/アメンボの気持ち/裸の王様/スピノザの神/走ることは、本当に好きなこと/手を合わせているときの心のありようは/カマキリの復讐 他
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