甲野善紀
@shouseikan

「風の先、風の跡――ある武術研究者の日々の気づき」

「狭霧の彼方に」特別編 その3

「すっきりしない」思想

釈先生はこうおっしゃいました。親鸞はずっと、信仰から、「信じる」から「逃げ続ける」ような生き方をした人である、と。しかし、そういった存在を「どこまでも追いかけ、後ろから抱きかかえるのが仏である」と親鸞は語っているそうです。「一方で自分が地獄へ行くことは決まっていると語りながら、阿弥陀如来による救いも語っているんです。ずっと引き裂かれたまま、すっきりしないんですね。この「すっきりしない」というところ、90歳で往生するまでずっと「すっきりしない」を抱えたままだったところが、親鸞さんの特徴だと思います」。

「法然さんの言葉と違い、親鸞さんの言葉や思想はすっきりしない面があります。でも、私が本当に追い詰められたとき―「あかん、こんなんやったら坊さん続けてかれへん」、それくらい追い込まれたとき、フッと、親鸞さんの言葉が浮かんでくる。そういうことが、何度もありました。不思議ですね、でも親鸞さんの言葉には、そういう力があるんです」。

引き裂かれたまま、「すっきりしない」こと。このお話を伺ったとき、私は以前、甲野先生からいただいたお手紙(往復書簡の私への御返信)のことを思い出しました。それは、野口裕之先生について書かれたものでした。少し長いですが、その部分を引用させていただきます。
 

それにしても、30年以上にわたって野口裕之先生の、あの「梯子をかけてもとても敵わない」と思える人間の命のあり方に対する(普通の人間ではおよそ思いつかない)ユニークという以上にあまりにも前衛的で、それでいて奇妙なほどに説得力のある思想に触れ続けてきましたが、この事は他の何ものにも換え難い大きな喜びです。ただその喜びをずっと感じ続けているには、私の方が野口先生より先にこの世を卒業することで得られるわけですが、そうなると今も書きましたように、野口先生にかなりの御迷惑をかける恐れもあり、これが何とも辛いところです。また、私が先には卒業出来ない理由の一つは、私ではとても役不足ではありますが、どうやら野口裕之先生にとっては数少ない、多少は話しが通る人間と思って頂いているらしいからです。

この事は今から3年前の11月、私が野口裕之先生にご紹介した木彫り彩漆職人の渡部誠一翁が亡くなりました折、実感しました。その時の野口裕之先生の憔悴したご様子は傍目にも悲痛なほどでした。その理由は渡部誠一翁の身体を初めて野口裕之先生が観られた時、あまりにも父である野口晴哉先生にそっくりで、それ以来、野口裕之先生はこの渡部翁の身体をまるで父親である野口晴哉先生を観るかのような思いで調律されていたからでした。そして、その葬儀の後、野口裕之先生はしみじみと私に向かい「甲野さん、頼むから僕より先に死なないでね」と仰った声音と表情は、今も脳裡に焼きついていて、私はその過分なお言葉と同時に、「では私の方が野口裕之先生を失う悲しみを受け止めねばならないのか」と思った事をハッキリと憶えています。

こうした人が人に対する信頼感と、宗教における「信」がどこまで共通しているかは、私自身何とも言いようがありませんが、親鸞上人の法然上人に対する言葉からも分かるように、無関係ではないと思います。野口裕之先生は世間によくある「天才の父を持つ二代目」とはまったく違った方です。それは父にあたる野口晴哉先生が「五風十雨しかし天は晴れているなり」と、雲の上は常に晴天である事を説かれていたのとは違い、「僕の整体は曇天の整体ですから」と明言され、「親父(晴哉先生)はお節介すぎて、その人が本来持っている以上のところまで身体を持っていこうとしていましたけれど、僕はその人相応の状態になるように体をもっていくようにしていますよ」と言われ、「人間が生きるとは何か」ということについての追求は、父である晴哉先生以上に深く探求されていると私には感じられます。

この点について照れ屋の裕之先生は「いや、親父は天才で出来てしまったから、そういう事はあまり考えなかったので、僕は親父のような天才ではないから、こういう形になったのですよ」と笑われていますが、およそ人が生きるという事に関して、野口裕之先生ほどユニークで、前衛的でありながら、説得力のある人物を私は見たことがありません。裕之先生は恐らく曇天でずっとすっきりしないまま生きて死んでいくのが人間本来姿であり、日本の「もののあはれ」の考え方は、それに根ざしているのだと思われているように思います。その、すっきりせず、あるいは引き裂かれたままの状況が悲惨ではなく、真に絵になるというのが野口裕之先生の凄いところで、私はこの方に御縁があった事を本当に幸いな事だと思っているのです。

最初にもお断りしたように、今回の田口さんへの返信は私の中で強烈にとまどう気持ちと、それを押し破って語ろうとする思いとが混在し、当初考えていたものとはかなり違うものになってしまいましたが、私の思いの一つを凝縮したものになった事は確かですので、それで御容赦いただきたいと思います。

 
実はこの箇所が、3年以上往復書簡をさせていただいていたなかで、最も深く私に突き刺さった個所、甲野先生の言葉でした。「矛盾を抱えていても、引き裂かれてあっても、決して悲惨になるな」 「『悲惨さ』と『深さ』を混同してはならない」。 そのように、甲野先生に諭していただいたような気がしたのです。「引き裂かれてあっても、悲惨になるな」。自分の生き方に確信が持てず、苦しくなるとき、道に迷ったとき、私はこの言葉を命綱のようにして生きてきました。というより、苦しいときに、ふと、この言葉が「戻ってくる」のです。

私と釈先生の親鸞聖人への思いを比べるのは、おこがましいことかもしれません。しかし、「すっきりしない思想」が、ときに、一番苦しいときに、一番深いところに届くことがある。そのことを、釈先生のお話を伺って、あらためて思い知りました。
 

易行と難信

その後、私は「法然と親鸞の違いについてですが、念仏に対して決定的に違う部分はどういったところでしょうか」と伺いました。

すると釈先生は、「法然さんは「易行」ということを言われます。これは、多くの人に教えを広めるという使命感にもよりますが、まず「念仏」という「行為」は誰でもできること、「易行」である、ということを強調される。それに対して、親鸞さんは「難信」という言葉をしきりに使われます。確かに、「念仏を称える」という「行為」は、いわば誰にでもできる「簡単な行為」かもしれない。しかし、どれだけ「行為」が簡単になっても、「信じる」ということの難しさには、何の変わりもない。親鸞さんは一生、その「難しさ」と向き合った方です。「信じる」ことは「難の中の難なり」という言葉も遺されているくらいです」。「易行」と「難信」。この言葉は、強烈に私の心に刻まれました。

「信じる」を表す行為が「簡単」になったとしても、「信じる」ことの難しさは変わらない。「信じるとは何か」という問いも終わらない。

むしろ、かえって「易行」であることが「信じる」の困難さを、結果として炙り出す面もあるのではないか。

「易行」であるからこそ、「信じる」ことの難しさが、ある種の空白や余白のようなものとして、前面に迫り出してくることもあるのではないか。親鸞聖人は、その炙り出された「信じる困難」を見つめ続けたのではないか。

釈先生のお話を伺いながら、そのようなことを、私は考えました。

またその意味で、浄土真宗で「身体的な行」を禁止していることは、「信じる」を「信じる」のままにするという意味では、私にはとても深く、本質的なことであるとも思いました。

ただし、そのような「疑い」や「悪の自覚」は、「自ずから」或いは「結果として」浮かび上がるもの・要請されるものであるはずが、「自ずから」「結果として」ではなく、「目的化」された解釈を受け、本末転倒を引き起こすこともあるのではないか。そんな疑問も起こりました。「疑いのための疑い」「悪のための悪」「自虐のための自虐」「痛みのための痛み」、こういったものは、無理や歪みを生じさせ、やがては「冷笑」を伴う「悲惨さ」へと至るであろう。「悪人でも救われるのだから、何をやっても許される」といった「本願ぼこり」のような現象は、このようにして発生してきたのではないか。

そこで、甲野先生の公開対談が始まる前に、少しだけ、釈先生と2人でお話させていただく時間があり、「身体的な行」や「疑いのための疑い」について質問させていただきました。

「親鸞聖人は、大きな転換が起こったとされる29歳以降『進化』されたのか」「自分が「他の何かになる」というような欲望自体が、29歳の時点で既に消滅してしまったのではないか。もしそうであるならば、それは身体的な行の否定と、深い関係があるのではないか」「悪人も救われるのだから何をやっても良い、といった「本願ぼこり」のような「本末転倒」現象は、他にも存在したし、現在もあるのではないか」

そうした質問を、釈先生に伺っていた、といいますか、伺いかけたのですが、時間切れとなってしまい、最後までお話を伺うことはできないままとなってしまいました。もし次の機会をいただけたら、ぜひ、こうした問題について釈先生に伺ってみたいと思っています。

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甲野善紀
こうの・よしのり 1949年東京生まれ。武術研究家。武術を通じて「人間にとっての自然」を探求しようと、78年に松聲館道場を起こし、技と術理を研究。99年頃からは武術に限らず、さまざまなスポーツへの応用に成果を得る。介護や楽器演奏、教育などの分野からの関心も高い。著書『剣の精神誌』『古武術からの発想』、共著『身体から革命を起こす』など多数。

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