(津田大介氏より)
1月10日、14時過ぎにジャーナリスト・編集者の竹田圭吾さんが逝去されました。竹田さんには生前より親しくさせていただき、僕のメルマガやポリタスなどで何度もご協力いただきました。訃報に接して、いつも優しく、時に厳しくご意見をいただいたすべてが僕の中で大きな財産になっていたのだなということを改めて実感しました。まだ自分の中では「竹田さんの不在」という事実を受け止め切れていないのですが、竹田さんの伝えたかったこと、メディアに携わる人間の責任とは何か、それらをこれからどういう形で受け継いでいけるか考えていかなければいけない――大きな宿題をもらったなと思っております。
2015年11月17日、CSのテレ朝チャンネル2でやっている『津田大介 日本にプラス』という番組に竹田さんにご出演いただき、テレビや新聞といったニュースメディア本来の役割とはなんなのか、お話を伺いました。番組では竹田さんが独自に磨き抜いた情報処理論やコメント論も披露してくださっており、なぜ竹田さんがニュースのコメンテーターとして唯一無二の存在感を示していたのかよくわかる内容になっております。
今回、この記事を無料で公開することで、多くの人に「コメンテーターとしての竹田圭吾」がどのような人だったのか、知っていただければと思いました。
改めて、竹田圭吾さんのご冥福をお祈りします。
(2015年11月17日 テレ朝チャンネル2 『津田大介 日本にプラス』 より)
出演:竹田圭吾(ジャーナリスト)、下平さやか(テレビ朝日アナウンサー)、津田大介
下平:本日はジャーナリストの竹田圭吾さんをゲストにお迎えしました。津田さんは竹田さんのことを以前からよく知っていらっしゃいますが、どんなジャーナリストだとご覧になってきましたか?
津田:竹田さんといえば「とくダネ!」や「Mr.サンデー」 などのコメンテーターとしておなじみですが、まず、テレビのコメンテーターとしては希代のコメント職人だと思います。J-WAVEの「JAM THE WORLD」 では僕とは違う曜日のナビゲーターを務めていらっしゃいますが、竹田さんの回を聞いていると質問がすごくうまいんですよ。たとえばかなりアクの強いゲストが一方的にしゃべっているような状況でも、基本的には相手に自由にしゃべらせつつ、一瞬の隙をついて合気道のように鋭い質問を投げかける。そういううまさはいつも参考にさせていただいています。
竹田:それはちょっと褒めすぎですよ。
下平:竹田さん、なんだか居心地が悪そうにされていますね(笑)。
津田:いやでも本当に、自分にはあんな質問できないなーと思いますよ。
下平:逆に、竹田さんから見て津田さんはどんなジャーナリストですか?
竹田:水先案内人みたいな人ですね。世の中にネットやSNSが登場して、この先のニュースメディアはどうなるんだろうと制作者も情報の受け手も思っているなかで、だれよりも先に道なき道を進んで「こっちにこういう未来があるよ」と示してくれるというか。そんな印象があります。
下平:お互いの印象を教えていただいたところで、今日はおふたりにテレビや新聞の変化についてとことん語っていただきます。「テレビは変わった」「新聞は変わった」と言われる昨今ですが、はたして両メディアは本当に変わってしまったのか。時代の変化に合わせて進化すべき点、原点に戻るべき点など、さまざまなお話を伺えればと思います。
「空気報道化」するテレビ
津田:では、まずあらためて伺いたいのですが、竹田さんがコメンテーターとしてテレビに出演し始めたのはいつごろのことですか?
竹田:2004年の1月からです。もう12年くらいやらせてもらっていることになりますね。
津田:最初に出演された番組も報道情報番組だったと思うのですが、当時のテレビはどんな状況だったんでしょう。
竹田:2000年代というのは、米国で同時多発テロがあったり、その後にリーマン・ショックがあったりした時期です。わりと堅めのニュースにニーズがあったので、朝の情報番組でもそういうものを大きく扱っていましたね。
津田:なるほど。
竹田:あと、いまとの違いで言うと、ネットやSNSがあまり普及していなかったので、良くも悪くもテレビがネットを意識することはなかったように思います。
津田:そうか、当時はちょうどブログなんかがはやった時期で、「通信と放送の融合」なんてことも言われ始めていた。その後、2005年に堀江貴文さんがニッポン放送を買収しようとしてテレビ側が強い抵抗感を示すという騒動もありました。
竹田:そうですね。
津田:当時の堀江さんをめぐる騒ぎには、ITという新しい勢力が、金融の力でテレビ局に代表されるマスメディアを乗っ取ろうとするというような構図がありました。マスメディアのなかにいた竹田さんは、一連の騒動をどうご覧になっていました?
竹田:あのときは、本来であれば放送と通信の融合とはなにか、どうあるべきかという議論をすべきだったんですよ。それなのにマスメディアは、堀江さんや村上ファンドの村上世彰さんといった濃いキャラクターの人たちが出てきて、いわゆる伝統的な模範意識からずれているぞと、センセーショナルな報道に走ってしまった。他罰的な感情におもねってしまったんですね。
津田:たしかに、テレビではそれが顕著でしたよね。だって、堀江さんだってそれまではあんなに何度もテレビに出ていたのに、ニッポン放送の買収話が持ち上がったとたん、手のひらを返したように悪者に仕立てられた。当時ニッポン放送の子会社だったフジテレビからは出禁にまでなりましたからね 。でもまぁ逆に言えば、当時は世論や世間の空気みたいなものをつくるだけの力がテレビにあったということでもあるんですかね……。
竹田:うーん。それをテレビがうまく使っていたかどうかは疑問ですけど。当時のライブドア事件にしても村上ファンド事件にしても、経済犯罪という意味では、たとえばいま話題になっている東芝の不正会計問題のほうが重大かもしれない。でも、東芝をめぐる昨今の報道と10年前のライブドア事件を比べると、どう考えたって報道の切り込み方が甘いですよね。そのあたりのフェアネスをどう担保するのかという学びがまだちょっと足りないのかなという気がします。
津田:竹田さんは昨今のメディア報道に対して「テレビの空気報道化」「新聞の空気化」だと指摘されていますよね。これ、どういう意味なのかあらためて説明していただけますか?
竹田:ニュースメディアというのは、空気の温度を調整するエアコンディショナーであるべきだと僕は思っているんですね。ある報道が過熱して空気が熱くなりすぎれば冷やさなければならないし、逆に空気が冷え切っていたら「このニュースはこんなに大事なんだよ」と温めて、ちょうどいい温度に調整しないといけない。しかし実際には、いまのニュースメディアは世間に漂う空気そのものになっていて、果たすべき機能を失っているように見える。
津田:世間に漂う空気そのものになっている──具体的に、最近で言うとそれに該当するニュースってなにかありました?
竹田:最近だと、やっぱり東京五輪のエンブレム問題ですかね。あれは本来、佐野研二郎氏のエンブレムではどうしてダメなのかということを検証しないといけなかった。剽窃だからダメなのか、デザインとして問題があるからダメなのか、選考過程が間違っていたのか。ところが、いまのテレビはネットの空気ばかりを見てしまっていて、そこに漂う空気をそのままスタジオやVTRに持ち込んでいるんですね。このケースの場合、騒動の発端はベルギーにあるリエージュ劇場とロゴのデザイナーが「佐野氏のエンブレムは盗作」だと指摘したことですが、最初にネットで話題になるやいなや、現地まで取材に行ったテレビ番組がたくさんありました。でも、どの番組も先方の主張をそのまま持ち帰って、世間に漂う空気のなかに放り込んだだけなんです。
津田:ベルギーのデザイナーが盗用を主張したとしても、それが正しいとはかぎらない──それなのに、なんの検証もせずにただ流しただけだと。
竹田:おっしゃるとおりです。わざわざベルギーまで行ったんだったら、デザイナー本人に「あなたはなぜ佐野さんのデザインが盗用だと主張するのか」「その根拠はなんなのか」と聞かなければならなかった。それを持ち帰ってから検証し、報道すべきだったと思います。
津田:なるほど。メディアによる「検証」と言うと、今回の場合はロゴの著作権の話になるので、同じような問題の過去の判例などを材料に判断できる著作権の専門家などに取材し、そのうえで最終的な判断は視聴者に委ねるべきだったということですね。
竹田:はい。判断のための材料をたくさん提供してあげないといけない。今回、その材料の提供の仕方で気になったのは、状況証拠ばかりを揃えて見せたことです。たとえばデザイナーがA、B、C、D、Eの5つの仕事をしたとして、そのうちB、C、D、Eに盗作疑惑があった、あるいは本人がこれは問題だったと認めたからといって、Aにも問題があるかどうかはまた別の話じゃないですか。
津田:たしかに。佐野さんの場合、まさに「B、C、D、Eが盗作だったんだからAもだろう」という状況証拠からの誘導だったわけですね。
竹田:そう。デザインの問題ですからSTAP細胞のように白黒つけるのはむずかしいとしても、デザインの盗用や剽窃の定義はこれだ、基準はこれだ、ということを示してもらわないといけなかった。そこまでやったうえで視聴者に判断を委ねるべきだったんじゃないかと。
津田:結局、佐野さんはエンブレムのデザイン自体は盗作でないとしながらも、家族や親族までバッシングの対象になり、「これ以上は人間として耐えられない限界状況」だとしてデザインを取り下げることになりました。まさに、先ほど竹田さんから指摘のあった他罰的な空気がまん延していたように思います。
竹田:そんなふうにSNSが悪意をもって個人を中傷したり、客観的な証拠を伴わない情報を流しているのであれば、本来はテレビや新聞などのニュースメディアがその空気にあらがって「実際のエビデンスはこうです」と示すべきなんですよ。
津田:それなのに、いまのテレビや新聞は、いわゆるネット世論のようなものに対しておもねってしまっているんですね。
竹田:おもねっている……というより、やはり空気化してしまっている。ネットの空気をただ映すだけの存在。先ほど津田さんから「10年前のテレビはどうだったか」という質問がありましたが、当時だと事件や事故の報道でも現場にカメラマンと記者が行って取材をして、どこにもないような画を撮ってきてそれを放送していました。しかしいま、事件や事故があったときに現場でなにが起こっているかというと、記者の人たちはその場にいた一般の人たちに「スマホで撮影をしていた人はいませんか」と尋ねるんですね。
津田:ああ、たしかに。ツイッターでも、ニュース番組の公式アカウントが一般のユーザーに対して「この画像を提供してもらえませんか」みたいなメンションを飛ばしているのを目にすることが増えました。
竹田:あとは、コンビニの監視カメラの映像をいかにして入手するかとか。じつは米国でもまったく同じことが起こっているんです。現場を単純に映しただけの映像がネット上にアップロードされて、そこに対してなんの掘り下げや解説もしないままテレビでも同じものを流してしまっている。空気化とはそういうことだと思います。
津田:とはいえ、本当にテレビはかつて「空気」ではなかったんでしょうか? もともとテレビは映像をたれ流しにするメディアじゃないか──そんないじわるな見方もあると思うんですが。
竹田:さっき言ったような空気にあらがい、独自取材してほかにないものを出すリソースという意味では、いまもテレビ局はそれをもっていると思います。たとえばテレビ朝日で言えば、山口豊さんというアナウンサーがライフワークとして沖縄の基地問題に取り組んでいます。独自取材によるほかにはない情報をたくさんもっているはずなのに、局はそれを生かしきれていないですよね。
津田:山口さんというと、下平さんの先輩ですね。
下平:そうですね。いま竹田さんがおっしゃったように、沖縄の基地問題を長年にわたって追いかけている人で。夏休みに家族で沖縄へ行ったときも、たまたま現地で事故が起きてしまって、休暇を返上してリポートしたりと、本当に人生をかけて取り組んでいる印象がありますね。でもたしかに、彼のような人間が正しく評価されているかというと、ちょっと……。話を伺っていてドキッとしちゃいました。
津田:まぁ、テレビ局もいまはビジネスとして非常に厳しい状況ですからね。それゆえに、番組にも無難な内容を求めるようになっている部分もあるのかもしれません。
竹田:テレビも商業メディアである以上、ある程度は仕方がないんですけれど、5年前、10年前と比べて、SNSを中心につくられる空気の流れの勢いはずいぶん変わってきているんですね。熱いものをより熱く、逆に冷たいものはより冷たくする力が強くなっているからこそ、そこで「世間の空気はこうだけど、そうではなく本質はこっちなんだよ」と言える、そのスキルとお金をもっているテレビ局がいままで以上に本来の役割を果たさなければならない。そんな意識が必要なんじゃないかと思います。
新聞の新しい可能性
津田:ここまではおもにテレビの話をしてきましたが、新聞についてはいかがでしょう。竹田さんは「新聞も空気化している」とおっしゃっていますが、どういうことなのでしょうか。
竹田:新聞の場合の「空気」というのは、新聞がだれもあまり意識しない存在になってきているということです。
津田:なるほど。それはダメなことなんですか?
竹田:日本の新聞のいいところって、だれもが同じものを読んでいることだったんです。いまの若い世代は購読率が下がっているみたいですけど、基本的には企業の経営者も新入社員も同じ新聞を読んでいる。弁護士や医者とブルーカラーの人が同じ新聞を読んでいる。これが欧米の先進国などでは、階級や階層、あるいは人種ごとに読む新聞が違っていて、新聞のなかで世論が形成されることはあまりないんです。
津田:たしかに。
竹田:日本ではみんな同じものを読むからこそ、ニュースに対して共通の価値観を担保しつつ、批評的な報道をしてきたところがあると思うんですね。ところがこの数年、特に特定秘密保護法や安全保障関連法案の報道の際に顕著でしたが、産経新聞や読売新聞といったいわゆる右派のメディアと、朝日、毎日、東京新聞といった左派系に位置づけられるメディアできっぱりと主張が分かれてしまっていた。主張というよりは立場が分かれて、自分たちの立場に合う報道ばかりをしていましたよね。
津田:おっしゃるとおり真っ二つに分かれてしまってましたね。でも、新聞の論調が左右に分かれることで、読者にはどんな影響があるんでしょうか?
竹田:さっきも言ったように、海外では階級や人種ごとに自分が読みたいことを書いてある新聞を読むんですね。たとえばイギリスでは、リベラルな人たちはガーディアンを読む。もうちょっと下世話なニュースも入っているほうがいいという人はデイリー・テレグラフを読む。で、いわゆるクオリティーペーパーを読んでいることにステイタスを感じるような人たち、あるいは本当に一流の国際報道やニュースを求める人たちはタイムズを読む。つまり、彼らはそれぞれの新聞に書いてあること──自分が知りたいことしか知らないわけです。
津田:それはそうなるでしょうね。一方、日本は違うと。
竹田:はい。そうでないところが日本の新聞のいいところだったんです。産経新聞だって「右だ」と言われますけれど、アジア情勢や歴史認識の問題以外の部分では特に偏った論調なわけではないですし。
津田:関西版に結構おもしろい記事があったりしますね。
竹田:読売新聞だって、医療関連の記事はとても丁寧につくっていたり、そんなに偏った新聞だったわけではないんです。読者だってそういうものを求めていたはずなのに、いつからかそうではなくなってしまった。左側とされる新聞だって、たとえば朝日新聞を開くと、安倍政権がいかに無謀かということが、まず否定ありきの立場で書かれている。論理的な筋立てで政権や安保関連法案を批判するというより、自分たちの主張を裏付けるニュースや意見だけを集めてきて載せるというような。ちょっと情緒的にすぎる報道だった気がしますね。
津田:特に朝日新聞は、昨年に慰安婦報道と吉田調書の問題がありましたからね。このふたつを誤報だと認めたことは、社内でも大きな衝撃だったようです。以来、編集方針が変わった人もいて、もう少し中道路線でいこうと、いわゆる両論併記型の記事が増えたという声もあります。そのあたり、竹田さんはどのようにご覧になっていますか?
竹田:うーん、僕の印象はそれとは違いますけどね。特定秘密保護法にしても、集団的自衛権にしても。
津田:やはりまだ、情緒的になっている部分が少なくないと。
竹田:そういうふうに僕は感じますけど。
津田:日本の新聞の良かった部分を取り戻すにはどうしたらいいんでしょうね?
竹田:最近ちょっと思うのは、紙の媒体としての新聞と、ネットで情報を発信するデジタル媒体としての新聞をうまく使って、新しい情報発信のかたちを模索することはできないのかということです。
津田:どういうことですか?
竹田:今年の夏に、産経新聞が朝日新聞の植村隆記者にインタビューを申し込んだでしょう? あの記事にはいろいろと考えさせられる点が多くて、ひとつの契機になりました。というのも、朝日新聞の慰安婦問題は、もともと産経新聞の検証記事がきっかけになったのですが、それを主導してきたのは産経の阿比留瑠比さんという記者だったんです。阿比留さんは「慰安婦問題は朝日の植村記者による誤報が生んだものだ」と長年にわたって主張していますが、その阿比留さんと植村さんの対談が実現したと。結論から言うと阿比留さんがこてんぱんにやられたんですが、そのインタビューの内容を産経新聞はノーカットでネットに掲載しているんですね 。
津田:僕ももちろん読みました。全文掲載が植村さん側の条件だったとも言われていますが、いずれにしてもあの姿勢はフェアでしたよね。
竹田:フェアだし、産経もなかなか懐が深いじゃないかと。本当は、そういうものを産経も朝日ももっていると思うんですね。
津田:なるほどね。あの記事のように、紙面とネットをうまく使えば、新しいかたちの新聞報道ができる可能性もあると。
竹田:そう。どの新聞も紙面の印象だけ見ていると「どうしてこんなに偏っているのかな」と思ってしまうけれど、ネットに出しているものにもきちんと目を通すと、意外と幅広くいろんな角度からものの視点を提供しているのがわかります。現状では、読者がそれを実感できないっていうのがもったいないというか、なんとかできないものかなと思いますね。
表現の自由について考える
津田:もうひとつ、今日竹田さんに伺いたかったのは神戸連続児童殺傷事件の元少年Aが出版した『絶歌』という本についてです。この本の出版をめぐる一連の騒動について、まずは下平さんから簡単に説明していただいていいですか?
下平:はい。今年6月、神戸連続児童殺傷事件の加害者の男性が、元少年Aの名義で『絶歌』という本を出版しました。この本をめぐっては遺族側が出版中止や回収を求めており、メディアでも「出版すべきでなかった」あるいは「事前に遺族の了承をとるべきだった」といった批判が飛び出しました。この件について、竹田さんは自身がコメンテーターを務めるある報道番組でこうおっしゃっています。
「表現の自由はもともと残酷で乱暴なものなので、表現の自由を守るための、対価、代償としてはしょうがないと思う。内容によって出版するしないを決めるといろんな本が出て来なくなる可能性がある。それは表現の自由を手放すことになるので、どんなかたちであっても本が出ることを制限するような動きには反対」
津田:これ、出版された当初は出版関係者のあいだでも相当な議論になりました。僕個人としては、出版自体は妥当なものだったと思うものの、遺族にもう少し配慮すべきだったのかなという立場。竹田さんの考えはいまもコメントで紹介しましたが、あらためて教えていただけますか?
竹田:表現の自由について、十分に理解されていない部分があるかなと思いましたけどね。
津田:というのは?
竹田:先ほどのコメントで僕が言ったのは出版の自由は保障されないといけないということで、実際、『絶歌』を読む前からそう思っていましたし、読んでからはその思いが一層強くなりました。そうでないと、神戸連続児童殺傷事件が起こった当時、加害者がどういう心理だったのか、どういう行動原理をもっていたのかということが記録に残りません。それを本にするなりして、だれもがなんらかのかたちで入手できるようにすることによって初めて、どうすれば同じような事件を防げるのかといったことをみんなで一緒に考えることができるようになるんです。
津田:たしかにそうですね。
竹田:ただ、出版の自由を掲げるときに大事なのは、その下に付随する別のいろいろな自由もきちんと担保されているのかということ。今回の場合で言うと、書店が販売する自由、販売しない自由、図書館が自分たちのところに置く自由、置かない自由。それから、読む人が読む自由と拒絶する自由。それらが保障されているならいかなる本も出版されるべきで、僕が状況を見るかぎりでは、どれもきちんと保障されていたように思います。
津田:なるほど。同様の議論にヘイトスピーチの問題がありますよね。最近は本屋へ行けば韓国や中国をおとしめるようなヘイト本が当たり前のように売られています。ここでも出版の自由と表現の自由、あとは生存権みたいな権利がぶつかってしまう気もするのですが、竹田さんはどう思われますか?
竹田:「表現の自由」は「フリーダム・オブ・スピーチ(Freedom of speech)」の訳だと思うんですけれど、世の中の表現や言論にはさまざまなかたちがあるので、そのすべての自由が保障されなきゃいけないとは僕は思わないです。具体的には、人権を損なうようなものにはなんらかの制限が加えられるべき。ヘイトスピーチもそれに含まれますね。特に、ヘイト本ではなく在日コリアンの人たちが暮らしている街まで行って、街頭で過激なヘイトスピーチを行うようなもの。在日コリアンの人たちからすれば、それを聞かない自由は保障されていないわけですから。
津田:相手のところまで行って、目の前でヘイト行為をしますからね。それを拒絶する自由が毀損されてしまっている。表現の自由も人権ではあるわけですが、それが他者の人権を侵害している場合は、その調整をしなければならないわけですからね。
竹田:そうです。繰り返しになりますが、それが出版の場合、本を読まない自由が保障されているかぎり、どんな内容であっても──たとえヘイトスピーチに関連するものであったとしても、出版されるべきであると僕は考えます。
津田:なんか、そう考えるとテレビ──特に地上波テレビって怖いですよね。つまり、たまたま入ったラーメン屋さんにテレビがあれば、見るつもりのなかった人もついテレビを見てしまうわけですから。当たり前の話ですが、あらゆるメディアのなかでテレビはもっとも公共性が高いメディアであるわけですから、そのあたりを考慮したうえで慎重に報道しなくてはならない。
竹田:まったくおっしゃるとおりで、一番危険なのは、その放送の自由の基準をつくったり、自由の制限を発動するかどうかの判断を、政府や第三者機関に任せてしまうことだと思うんです。テレビやネット、それから出版社も含めて、本来的にはグレーなゾーンに関しては「ここまでは」という線引きを自分たちできちんと考えて、それはつねに変わるものなので、そのたびに更新するべきだと思うんですよね。
いつも心に「複眼」を
下平:さて、今日は津田さんが言う「希代のコメント職人」である竹田さんにせっかくお越しいただいたので、コメント術についてもお話を伺えればと考えています。ご自身は、コメントについての基本的な考えを次のように述べておられます。
「テレビ番組でコメントするときにもっとも考えるのは、視聴者に考えてもらう材料をいかに伝えるかということ。別のゲストやVTRの論旨が『Aが重要』という主張の場合、自分はあえて『Bが重要』『Cに注目』など別の視点を提示するように意識している」
津田:たしかに竹田さんがコメンテーターとして出演している番組を見ていると、たとえば3人のコメンテーターがいて、前のふたりが同じようなことを言った場合、竹田さんはあえて全然違うコメントをすることが多いような気がします。あれはご自身の考えとは違っても、この場にはこの意見が必要だと感じたことをあえて投げているんですか?
竹田:まぁ、性格がねじれているというのもあるんですけど(笑)。
津田:天邪鬼ゆえのコメントだと(笑)。
竹田:僕はかつて『ニューズウィーク日本版』という週刊誌の編集部にいたんですけど、入った当初、創刊編集長でTBSの「ニュースコープ」という番組でキャスターもやっていた浅野輔さんにいろいろなことを学んだんです。浅野さんは国際政治学者で、彼による『ニューズウィーク日本版』の創刊理念は「複眼思考」でした。つまり、なにか物事の事実や真実を見つけるためには複数の視点や角度からものを見る姿勢が絶対に必要だということですね。僕も仕事をしていくなかで、たしかにそうだ、世の中の物事はだいたいグレーなので、なるべく違う角度から複数のものの見方を提供するのが一番大事だなと思うようになって。そんなことを考えながらニュースメディアの仕事を20年もしてきたので、テレビでも同じことをやろうとは思っていますね。
津田:その「複眼思考」こそ竹田さんがテレビでも重宝される理由だと思うのですが、やろうと思って簡単にできることではないですよね。実際、ほかになかなかそういうコメンテーターはいませんが、竹田さん自身もテレビに出始めたときは「なんだこの人たちは」といった不満があったんじゃないですか?
竹田:不満というより、自分が出ていてもつまらないことが多かったですね。そういう番組って、見ていてもつまらないですから。コメンテーターがみんな同じことを言う番組なんて見たくないでしょう(笑)。
津田:それはコメントだけではなく、質問する立場のときも同じですよね。竹田さんがナビゲーターを務めるラジオ番組などでは、竹田さんの考えに近いゲストが来た場合にでも、あえて意地悪な質問ばかりしているような気がします(笑)。
竹田:そういうところはありますね。リスナーは予定調和ではないゲストの本音を期待していますから。たとえば自民党のゲストにガンガン突っ込んだら「お前は共産党びいきか」なんて言われて、逆に共産党の人にガンガン突っ込んだら「安倍びいき」と言われる。それってインタビュアー冥利に尽きますよね。
津田:ただ、つねに複眼的な意見を提示しようとすると、たとえば自分がコメンテーターで、言おうと思っていたことをすべてほかの人に言われた場合、頭の切り替えはどうされてるんですか?
竹田:テレビの場合、ほかの出演者の名前が台本に書いているので、たとえば「尾木ママだったらこれを言うだろうな」というのはだいたい予想できるじゃないですか。
津田:なるほど(笑)。
竹田:それに対して違う意見は……と考えればいいので、テレビ生放送だけれども準備はしやすいんです。ただ、尾木ママみたいにわかりやすい人ばかりじゃないので、大きいニュース番組に出演する場合はだいたい2番、3番目くらいまではコメントを用意して行きますね。
津田:あ、事前に複数用意して行くんですね。
竹田:はい……っていうか、普通のことでしょう。用意しないとできないですよ(笑)。
津田:そりゃそうですよね、勉強になります(笑)。
下平:じつは、そんな竹田さんのコメント論をまとめた書籍『コメントする力』が2年前に出版されています。そのなかで竹田さんは、情報を編集し、コメントして発信する際の心がけとして以下の点を挙げています。
- 情報は整理しない
- 情報はタテ軸とヨコ軸に置いてみる
- すべてはグレーと考える
- 他人と同じことは絶対に言わない
- 刺さるコメントより、しみ込むコメントを
- ボケる力を磨く
上から4つ目の「他人と同じことは絶対に言わない」というのは、まさにいまここでお話いただいたことにつながりますね。
津田:あと「すべてをグレーと考える」というのも、先ほど出てきましたね。ほかにも個人的に気になるものがいくつかあって、たとえば「刺さるコメントよりしみ込むコメントを」。これはどういうことなんでしょうか?
竹田:特にテレビの場合、ズバッと刺さるコメントを言うとスタッフも視聴者もよろこんでくれるんですけど、そういうコメントってだいたい?ですからね(笑)。
津田:本当のこと言っちゃった!(笑)
竹田:だって、世の中の物事はほとんどがグレーで、白か黒かになんて分けられないのに、そこで「白です」「黒です」などとズバッと言えるはずがないでしょう。少なくとも僕はそう思っているんですけどね。
津田:逆に言うと、そのときはよくわからなかったけど、時間がたってからふいに「あのとき竹田さんが言っていたのはこういうことかもな」と思い出してしまうというか。しみ込むコメントって、そういうことですかね。
竹田:ニュースを見ているときは違和感があったとしても、あとでまた繰り返し同じニュースが報道されているのを見て、「あ、違う見方もあるんだな」と気づいてもらえたらうれしいですね。黒か白かなんて簡単には決められないんだと感じてもらえるようなコメントをなるべくするようにしています。
津田:なるほど。では、「情報はタテ軸とヨコ軸に置いてみる」というのは?
竹田:これは複眼思考にも重なるんですけれど、特にテレビの場合、映像を見ていればそれでわかることってあるじゃないですか。たとえば事故があって、被害者や犠牲者の方が映っているのを見て「悲しいでしょうね」と言うのは当たり前で、そんなコメントは絶対にしてはいけない。じゃあなにを言うか。その映像に映っていない部分はなんだろうと考えたとき、一番簡単なのは「時間軸」と「地理軸」なんです。
津田:時間軸と地理軸ですか。
竹田:はい。たとえば飛行機の墜落事故があったとして、過去にはどんな墜落事故があったのか、それとの類似性はあるのか、学べるものはあるのかどうかを考えるのが「時間軸」。一方の「地理軸」は、飛行機が中央アジアで墜落した場合、ほかの地域で起きた事故と比較したときになにか特性はあるのかを考えます。実際にはほかにもいろんな軸を使いますが、そのふたつが簡単ですね。
津田:そういう軸を複数もつためには、読書などをして知識を蓄積しておく必要もありますね。
竹田:本を読むのも大切ですが、情報を整理しないことが重要だと思いますね。
津田:情報を整理しない……。先ほどのリストにもありましたが、これ、最初に見ると驚きますよね。巷には情報整理術の本があふれているなかで、「情報を整理しない」という指南をどう捉えればいいんでしょう?
竹田:これもまたいまの「タテ軸、ヨコ軸」につながっているんですが、そういうものの見方をするには、ぜんぜん違うところからものさしを持ってこないといけないじゃないですか。そのためには、情報を整理してストックしておくのではなく、なんとなくこの情報はここにあるなと目星をつけて、フローさせておいたほうがいい。たとえば自動車関連の経済ニュースがあったときに、自動車業界の軸だけで考えると見えるものが限定されてしまいます。でも自動車って移動手段でもあるし、ホビーでもあるという、違ったものの見方があるわけですよね。そういう思考の習慣をつけておこうということです。
津田:なるほどね。そうすると、おのずとコメントも3個くらいは用意できてしまえるんでしょうね。今日、番組の冒頭でニュースメディアはエアコンだというお話があったじゃないですか。その意味では、番組のコメンテーターもやはりその一部であるということですよね。
竹田:そうですね。エアコンだし、ひょっとしたら加湿器なのかもしれない。生放送のニュースメディアに出演する際に大事なことは、そのときの状況に応じてそこにある空気にとらわれないものをスタジオで提供することなんだろうなと思います。
津田:先ほども新聞の左右による分断の話が少し出ましたが、そんな状況のなかで情報を見抜く目が求められているのだと思います。そういうものはどうすれは養えるのか、また、それをもつことの重要性についてはどうお考えですか?
竹田:えっと、情報を見抜くとかって、べつに大事なことでもなんでもないと思うんですね。本当に大事なのは自分で考えて結論を出すことじゃないですか。それは仕事でも選挙でもそうだし、あるいは暮らしのなかの些細なことでもそうですよね。そこを完結点としてさかのぼり、じゃあ自分なりの結論を下すために必要な情報はなにか、それを考えるにはどれほどの時間が必要なのかといったことを決めることこそが大事だというか。情報そのものを見抜いたところで、考える時間や判断しようとする意思がなかったらなんの意味もないですから。
津田:なるほど。それでは最後に、今後のことについて。竹田さんは最初はスポーツの記者としてキャリアをスタートして、『ニューズウィーク』の編集長になって。そしていまはフリーランスのジャーナリストやコメンテーターとしてメディアに出演したり、ものを書いたりとかされています。自身がご病気されたこともあり、この10年で周囲の環境も変わってきたと思いますが、今後はどういうかたちでメディアと関わっていきたいのか、なにをやりたいのかなど、お聞かせいただけますか?
竹田:あの、いますごくエラそうなことを言いましたけど、じつは自分自身あまり考える時間をもたないでやってきたという反省がありまして……。そうですね、今後は物事をじっくり考える時間をつくり、それをニュースメディアで発信したり、あるいは本にして出版できればいいな、なんて思ってますけれども。
津田:今日はテレビへの厳しい提言もありましたけれど、とても参考になるお話ばかりしていただきました。
下平:そうですよね。厳しいお言葉もありましたが、よく考えれば当たり前のことをおっしゃっていて、自分の目の曇りが晴れたような気がしました。
津田:いやー、僕、じつはいつもテレビに出るときはだいたいコメントを1個しか用意しないんで……。2個、3個と用意することの重要性がよくわかりました(笑)。
下平:やっぱり! さっきのやりとりを聞いていてそうじゃないかと思っていたんですよ!
竹田:いや、1個だけでもユニークなことを言える人はそれでいいんじゃないかと……。
津田:すみません、気を遣っていただいて……。まだまだお話は尽きないのですが時間になってしまいました。竹田さん、今日はすばらしいお話をありがとうございました!
竹田:どうも、ありがとうございました。
竹田圭吾(たけだ・けいご)
1964年、東京生まれ。慶應義塾大学文学部卒業後、スポーツ雑誌で米国プロスポーツ取材多数。1993年に国際ニュース週刊誌「ニューズウィーク日本版」編集部に移り、国際情勢、アジア経済、社会問題等を取材。1998年より副編集長、2001年1月〜2010年9月まで編集長。その後フリーランスのジャーナリストとなり、フジテレビ系「情報プレゼンター とくダネ!」「Mr.サンデー」、J-WAVE「JAM THE WORLD」などでコメンテーターやナビゲーターとして活躍中。著書に『コメントする力』(PHP研究所)がある。
ツイッターID:@KeigoTakeda
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