私の中にはもう一人の「私」がいる!?

『エスの系譜 沈黙の西洋思想史』互盛央著

沈黙を課しながら語る

したがって、エスの歴史は必然的に茫然自失の連続でもあった。時にエスは「人種」といった一般名詞や、「ヒトラー」のような固有名詞へと実体化され、いつの間にか、それが置き換えであることが忘却されることで、多くの狂信者が生み出されてきた。そうした狂信者は忘却によって真理の感覚を味わう代わりに自らを疎外し、エスをよりもっともらしい姿へ擬人化していくに従い、「考える」という述語さえも喪失していく。「自己を疎外し、エスを擬人化する」なんていうと抽象的だけど、それは「他者」とのコミュニケーションを限りなく困難にすることを意味し、前後不覚をのっぴきならないものにしてしまう。

ニーチェはこうしたケースを言語の虚構に基づく「原因および結果の誤った本物化」とした上で、<主語「私」は、述語「考える」の前提である>と述べるのは事態の捏造であり、述語こそ主語の真理であると喝破した(『善悪の彼岸』)。「それesが考える」と言うのさえ言いすぎ、とまで言ったのだ。

このように精神が行う「考える」や「思う」という働きは、得てして「私」をめぐる誤った信仰に閉じ込められがちであり、述語の喪失を避けるためには、沈黙を課されたエスと、それでもエスの言葉を聴こうとする私の「あいだ」で、矛盾と分裂に目を背けずそれでも立ち続けるしかないのだろう。

沈黙を課しながら語る、分からないものを分からないままに分かろうとする。
「うまくいく」というのは、そういうギリギリのバランスの中で、ポンとつながるパスのようなものなのかなあ、というのが当座の「考え」の粗描である。

ちなみに、本書ではエスのすり替え例として、上記の他に「遺伝」や「心霊」なども挙げられている。また、フロイトと弟子の確執を基点に、ニーチェ、シュタイナー、ブーバー、レヴィ=ストロースなど普段あまり結び付けて考えることのない人物をエスという縦糸で結んでいく著者のスリリングな手腕にも、幾度となくハッとさせられるはずだ。

エスという言葉の得体の知れなさに少しでも引っ掛かった方は、ぜひ一度本書を手にとってみてほしい。

1 2 3

その他の記事

がん治療・予防に「魔法の杖」はない?–「転ばぬ先の杖」としての地味な養生の大切さ(若林理砂)
ロシアによるウクライナ侵略が与えるもうひとつの台湾有事への影響(やまもといちろう)
馬鹿に乗っかられて壊滅した「評価経済ネタ」バブルの今後(やまもといちろう)
ヨーロッパ最大の放送機器展でこれから来る欧州の冬を想像する(高城剛)
ふたつの暦を持って暮らしてみる(高城剛)
Facebook(やまもといちろう)
目下好調の世界経済にバブル崩壊のシナリオと対処法はあるのか(やまもといちろう)
“美しい”は強い――本当に上達したい人のための卓球理論(上)(山中教子)
『「赤毛のアン」で英語づけ』(2) 何げないものへの〝感激力〟を育てよう(茂木健一郎)
「キレる高齢者」から見る“激増する高齢者犯罪”の類型(やまもといちろう)
安倍政権「トランプ接待」外交大成功ゆえに、野党に期待したいこと(やまもといちろう)
「コロナバブル相場の終わり」かどうか分からん投資家の悩み(やまもといちろう)
アーユルヴェーダで本格的デトックスに取り組む(高城剛)
ヤフーがニュース配信をやめる日(やまもといちろう)
お掃除ロボットが起こした静かな革命(名越康文)

ページのトップへ