私の中にはもう一人の「私」がいる!?

『エスの系譜 沈黙の西洋思想史』互盛央著

先日、臨床心理士、催眠術師、占い師を含む親しい友人たちと会食をしていた時に、誰からともなく「“私”が出てくると施術(セッション)がうまくいかない」という話題になった。それぞれ近いと思われがちだが実際には異なる部分の方が多いジャンル同士だったので、共通項の発見に「お」と一瞬場も盛り上がり、皆自らの経験や伝聞に照らして、その“感じ”について説明しようと試みたが、結局いまひとつ腑に落ちる説明が出てくることもなく、そのままお開きとなった。

これを書いている今現在もうまく言葉にならない掻痒感は消えないままだが、その“感じ”が深まりそうだなと感じた本を、この場を借りて紹介したいと思う。

 

二つの「自分」

本書『エスの系譜』のキーワードである「エス」は、ドイツ語の代名詞「Es」(英語のIt)であり、何よりも精神分析の創始者フロイトが「暴れ馬のように、手綱を握る自我を振り回す無意識的なもの」を指す名称とした心理学用語としても知られている。が、そもそもこのエスはフロイトの創作物でも、ましてや所有物でもなく、著者も指摘しているように、むしろ人々に突きつけられた一つの謎として、フロイト以前からドイツ圏の思想に通奏低音として脈々と流れ続けてきた。

例えば「彼は具合が悪い」 はドイツ語では「Mit ihm ist es schlecht beschaffen.」と表す。beshaffenは「~(の状態・性質)である」という意味の動詞、schlecht は英語のbadに近い形容詞で、mit ihmはwith him。で、興味深いのは、我々が直接見て取るのはこの「具合が悪い彼」としてのErであるにも関わらず、それとは別に、非人称主語として述語(~である)に対する主体を担っている「Es」が前提とされているという点。

つまり、ここでは異なる二つの「自分」が設定されており、自分の具合が悪いと考えている彼自身の立場に立った時、I thinkの「I=ich」とは別に、そう考えている自分を常に先回りして考えている自分Esがある。「私がある(我あり)」とは、ドイツ語ではich bin ではなく、Es gibt mich(ich)なのだ。(詩人ランボーは「私は一個の他者である」という文言を書き残しているが、その「私」とは言うまでもなく後者の自分Esだろう)。

誰でもない、が自分である。このerやichよりも常に先にあって、矛盾する言明が共存する得体の知れないEs(それ)。コイツはいったい何なんだ? という不可思議に打たれつつも、時にそれから与えられる(というか気付くとポンと置いてある)思いに何らかの確からしさを感じ、耳を傾けてみた。こうした経験は、なにも学者や作家に限らずとも、身に覚えがある人も多いのではないだろうか。

1 2 3

その他の記事

歩き方の上手い下手が人生を変える(岩崎夏海)
2022年夏、私的なベスト・ヘッドフォン(アンプ編)(高城剛)
自分の身は自分で守る時代のサプリメント(高城剛)
殺人事件の容疑者になってしまった時に聴きたいジャズアルバム(福島剛)
「親子上場」アスクルを巡るヤフーとの闘い(やまもといちろう)
アフリカ旅行で改めて気付く望遠レンズの価値(高城剛)
自民党・野田聖子さんご主人、帰化在日韓国人で元暴力団員と地裁事実認定の予後不良(やまもといちろう)
週刊金融日記 第295号【ビットコインで儲けたお金をベンチャー企業につっこもう、米国法人税率20%が実現すれば空前の好景気が到来する他】(藤沢数希)
正しい苦しみ方(岩崎夏海)
アップルの“あえて言葉にはしていない”仕掛け(本田雅一)
揺れる情報商材 違法化、摘発への流れが強まる(やまもといちろう)
古舘伊知郎降板『報道ステーション』の意味(やまもといちろう)
揺れる「全人代」が見せるコロナと香港、そして対外投資の是非(やまもといちろう)
ハロウィン:あの世とこの世の境界線が曖昧になるとき(鏡リュウジ)
タワマン税制の終わりと俺たちの税務のこれから(やまもといちろう)

ページのトップへ