「信仰」と「矛盾を矛盾のまま両立させること」
狂信的な信仰者は「それしか」認めることが出来ません。『大地の母』第11巻に出てくる「東京大地震」の問題を起こした秋山真之など、いわゆる「見当はずれなことを信じて信仰から離れていった人々」というのは、自分の考え以外のもの、自分の考え方とは異質な考え方を認めることができなかったのだと思います。「それしか」認めることができないのです。また、「もしかしたら自分の考え方は『間違って』いるのかもしれない」という「疑い」や「迷い」、ある種の「後ろめたさ」を彼らは持っていなかったのではないでしょうか。
しかし、「深い信仰」とは、自分自身の信仰に対する「疑い」や「迷い」といったものを全て抱え込んだまま、安易に「妥協」させることなく、それでも自らの信仰を貫く姿勢ではないでしょうか。それは以前、曹洞宗の南直哉さんが「仏教は『閉じない』。閉じてはいけないのだ」と仰っていたこととも関連すると思っています。
「人間はいったん何かを信じると、<信じる自分は裏切れない>のですね。だから、たとえ教祖が「間違いだ」と指弾されても、けっして認めない。もしもそれを認めてしまうと、信じた自分を裏切ることになりますから。この構造に一度はまったら、もはや自己相対化がきかない。だからこそ、僕は<閉じた言説>はまずいと思うんですよ。
(中略)
僕がとくに禅の言葉にシンパシーを感じるのは、そこに<ぜったいに閉じさせまい>という覚悟を感じるからなのです。<閉じたら駄目だ>という明らかな意思を感じます。そこが、僕が禅に強く共感するところです。<閉じる>というのは、ある問いに対して「答えはこれだ」と一つの答えをポンと出して、問いを塞いでしまうことです」
(『<問い>の問答』)
本当に「深い信仰」を持った人は「自らの信仰以外のもの」を抱え込むことができるのだと思います。そこが「狂信」との大きな違いであると思うのです。また、上記引用箇所の直後で南氏は
「<生きる>ということの最も大きな力は、『アンバランスさ』だと思うのです」
と仰っていますが、この部分に私は深い共感を覚えます。甲野先生が仰る「矛盾するものを矛盾したまま両立させること」ということとも繋がるのかもしれない、と思います。
私は「科学と宗教の関係性」や、「信仰を持つ・持たない」ということに関して悩み、考えていた10代のときに、甲野先生の「矛盾を矛盾のまま両立させること。これが武術である」という言葉に出会いました。その言葉を目にした瞬間、私は「これだ」と思ったことを今でもはっきりと覚えています。
信仰に対するある種の「憧れ」と、信じることへの拒否感、科学に対する興味と、宗教に対する関心…こうした「矛盾した感情」を、安易に妥協せず、両方共に抱え込んだまま両立させること。それが、私が今でも求めている生き方です。
この感情を両方抱え続けることは苦しいですが、10代のころからずっと「安易にこの感情を『妥協』させてなるものか」と思い続けてきました。「安易な宗教多元主義」などに対する違和感も、ここからきているのだと思います。
甲野先生の著作に触れさせていただくことが多くなっていったのも、「武術」とは異なることかもしれませんが、甲野先生のお話や生き様を通して「矛盾を矛盾のまま両立させる方法を学べるかもしれない」と思ったからです。「矛盾の両立」ということが、「信仰」という問題について考える際にも必ず大きな力になる、という思いからでした。
その他の記事
個人情報保護法と越境データ問題 ―鈴木正朝先生に聞く(津田大介) | |
「言論の自由」と「暴力反対」にみる、論理に対するかまえの浅さ(岩崎夏海) | |
三浦瑠麗の逮捕はあるのだろうか(やまもといちろう) | |
3月移動に地獄を見た話(小寺信良) | |
デトックス視点から魚が現代人の食生活に適しているかどうかを考える(高城剛) | |
対人関係の9割は「自分の頭の中」で起きている(名越康文) | |
大学の奨学金問題、貸し倒れ率見る限り問題にならないのではないか(やまもといちろう) | |
テクノロジーの成熟がもたらす「あたらしいバランス」(高城剛) | |
安倍政権「トランプ接待」外交大成功ゆえに、野党に期待したいこと(やまもといちろう) | |
年末年始、若い人の年上への関わり方の変化で興味深いこと(やまもといちろう) | |
「ネットが悪い」論に反論するときの心得(小寺信良) | |
アーユルヴェーダを築いた修行者たちを偲ぶ(高城剛) | |
「民進党」事実上解党と日本の政治が変わっていくべきこと(やまもといちろう) | |
プログラミング言語「Python」が面白い(家入一真) | |
ピクサーにみる「いま、物語を紡ぐ」ための第3の道(岩崎夏海) |