二村ヒトシさんの『すべてはモテるためである』という本を読んだ。
この本は、「モテない人はなぜモテないか?」ということを、それ以前の「そもそもモテるとは何か?」ということから考え始めて、続いて「ではどうすればモテるのか?」、あるいは「モテたらどうなるのか?」というふうに、「モテる(モテない)」という現象について包括的、多角的に分析、論説した本である。
これを読んでいていて、ぼくは唐突に「モテるとは何か?」ということに気づかされた。いや、うすうす気づいてはいたのだが、それが明確に意識化されたのである。モテるということの正体が、理論だった概念として浮かびあがってきたのだ。
「自分のことを考えなくなった」らモテるようになった
ところで、これは冗談でも何でもなく、今のぼくはモテる。しかし、昔はモテなかった。
そのため、「どうして昔はモテなかったのに、今はモテるようになったのか」ということを、この本を読んで考えた。すると、昔と今の違うところが分かってきた。昔と今の、ぼく自身の差異が見えてきた。その差異を検証することで、「モテるとは何か?」ということの正体が分かったのだ。
では、昔のぼくと今のぼくとで違うところは何か?
それは、「自分のことを考えなくなった」ということだ。
昔は、「自分」のことをよく考えていた。「自分中心」の考え方をしていた。しかし今は、「自分」のことは考えなくなった。その代わり、ぼく以外の、ぼくがつき合う「相手」のことを考えるようになった。
そうしてぼくは、その「相手」のことを喜ばせたいという、「相手中心」の考え方をするようになったのだ。
では、「相手中心」に考えて、相手のことを喜ばせようと思ったとき、自分にできることは何か?
実は、ここのところがミソなのだが、それは、「ぼくのことを好きになってもらう」ということなのである。
ぼくのことを好きになってもらうことは、実は相手にとってこそ喜びであった。ぼくはそのことに気がついた。だからモテるようになったのだ。
「相手中心に考える」ことの困難さ
これは、具体的にどういうことなのか? 別の言い方で説明してみたい。
例えば、たまたま知り合った女性がいたとする。その女性と、恋愛や友人に至らないまでも、知人としてつき合うことになったとする。そのとき、ぼくを「好き」になってもらうのと、ぼくを「キモチワルイ」と思うのとでは、どっちが幸せか?
それは、言うまでもなく「好き」になってもらう方である。誰も、「キモチワルイ」と思うような男性とは知人でいたくないし、会いたくもない。
しかし、好きになる男性とは知人でいたいし、会いたい。だから、その人にとっては、ぼくを好きになる方がよっぽど幸せなのだ。
その原理に、ぼくは気づいたのである。だから、それ以来、相手から好かれようと考えるようになった。
ただし、好かれる目的は、自分中心の考え方に依ってではない。あくまでも、相手中心の考え方に依ってである。
ここのところが、大きな違いなのである。自分のために自分を好きになってもらうのと、相手のために自分を好きになってもらうのとでは、天と地ほどの差があった。
両者の違いは数え切れないほどあるが、まずそれが現れるのは「格好(スタイル)」においてである。
自分のために好きになってもらおうとすると、例えば相手と会うとき、「自分がしたい格好」をする。あるいは、「自分がこう見てもらいたい」という格好をする。自分を変わり者だとみてもらいたい人は変わり者の格好をするし、自分を不良に見てほしい人は不良っぽい格好をする。
しかし、相手のために自分を好きになってもらおうとする人は、自分の好きな格好をしない。自分をこう見てほしいとも思わない。
それよりも、「相手が自分をどう見たいか」ということに意識を集中させる。あるいは、「相手がどういう格好をしてほしいか」ということを考えて、それに合わせた格好をするのである。
このとき、具体的なスタイルは、実は重要ではない。変わり者の格好をしようが、不良の格好をしようが、そんなことは本質的な問題ではない。
それよりもだいじなのは、「相手を喜ばせる格好ができているかどうか」である。その「基本」を損なっていないかどうか、が、何より重要になってくるのだ。
その「基本」とは、例えば次のようなことである。
・清潔である
・自分の格好(スタイルについて考えた経験)を持っている
・自分に似合ったスタイルである
・着るのが簡単な服を着ない(着るのが面倒くさい服を着る)
この中で、取り分け難しいのが2つ目の「自分の格好を持っている」ということだ。
ほとんどの女性は、自分に媚びへつらう男性が好きではない。それよりも、自分を引っ張ってくれるリーダーシップを持った男性が好きだ。
だから、たとえ相手の女性にスタイルの好みがあったとしても、それに合わせるような男性では、かえってマイナスイメージになるのである。
このように、「相手の気持ち」というのは一筋縄ではいかない。ほとんどの人が、その人自身さえ気づいていないアンビバレントな気持ちを抱えている。
例えば、曲がったことの大嫌いな女性が、えてして不良に惹かれるというのはよくあることだ。そんなアンビバレントな様態の中にこそ、人の気持ちというものの本質が隠れているのである。
その道理を理解していないと、いくら「相手中心」に考えても、いつまで経ってもモテはしない。
ぼくは、たまたま人の心を読み解くことが仕事だったから、そうしたからくりに気づくことができた。そのため、「相手中心」に考えるようになってからは、すぐにモテた。
しかし、世の中のほとんどの人は、そうした「人の気持ちのアンビバレントな様態」というものを知らない。だから、例えば「だらしなさ」「子供っぽさ」といった、一見モテるためにはマイナスに見える要素が、逆にモテるための強力な武器になるということも分かっていない。
そのため、そうした道理を理解できるようになると、大きな競争力を獲得できる。
ただし、この考え方には一つの「お断り」がある。それは、あくまでも「相手中心」の考え方ですることだから、「自分」はどこまでいっても満足できない――ということだ。だから、「自分が満足しないこと」に何らかの意味を見出せる人でないと、積極的に継続していくのは困難なのだ。
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岩崎夏海
1968年生。東京都日野市出身。 東京芸術大学建築科卒業後、作詞家の秋元康氏に師事。放送作家として『とんねるずのみなさんのおかげです』『ダウンタウンのごっつええ感じ』など、主にバラエティ番組の制作に参加。その後AKB48のプロデュースなどにも携わる。 2009年12月、初めての出版作品となる『もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの「マネジメント」を読んだら』(累計273万部)を著す。近著に自身が代表を務める「部屋を考える会」著「部屋を活かせば人生が変わる」(累計3万部)などがある。
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