念仏を「聞く」
「易行」と「難信」について伺った後、私は親鸞の「念仏」に対する考えについて、更に伺ってみたいと思いました。そこで、私がずっと考えていた「ただ信じる」ということ、つまり「念仏=信」「念仏を称えることが信じることである」ということ、あるいは、「念仏」という「行為」に「信じる」を「預ける」ということを、親鸞聖人は実際に仰っているのですか、と伺ったのです。
すると、釈先生から、次のようなお答えが返ってきました。
「念仏に対する考え方で、法然さんと親鸞さんのあいだで決定的に違うところがあります。法然さんは、念仏を「称名」(しょうみょう)と呼ばれます。つまり、念仏を「称える」ことが大切であるということです。それに対して、親鸞さんは念仏を「聞名」(もんみょう)と呼ばれる。自分がお称えした念仏を「聞く」とき、自分が称えた念仏の音が「聞こえる」とき、そこに阿弥陀如来のはからいを見るんです。」
この瞬間、身体の一番深いところが、慄えました。
念仏を「称える」ではなく、念仏を「聞く」、念仏が「聞こえる」ということ。その「響き」に「信じる」が顕れるということ。称えるのは「私の声」でありながら、その声を「聞く」とき、「私の声」が、手元を離れ、「響き」として「聞こえる」とき、「向こう側からの呼び掛け」が立ち顕れ、「私」に「信」が「到来する」ということ。
浄土真宗教学にお詳しい方にとっては常識で、何を今更と思われるような話なのだと思います。しかし、私はこのお話を伺ったとき、誇張ではなく、自分の中心が慄え、同時に自分の周りにあった壁が、粉々になるような感覚を覚えました。
「私が称える」のではなく、阿弥陀如来によって「称えさせられる」。「称えた私」に「結果として」気づく。その受動性においてこそ、「信」が炸裂する。
これまでの私は、どれだけ切実に考え、必死に書いているつもりでも、「私が」という「能動的な地点」にしがみつき、そこから離れることができないまま、「信じる」について考えてくることしかできなかったということを、思い知った瞬間でもありました。
あの瞬間は、生涯、忘れることはないと思います。
釈先生、お忙しいなか、最後まで私の話に耳を傾けてくださり、ありがとうございました。このようなご縁をいただけて、私は本当に、幸いでした。
まだ沢山質問させていただきたいことがあるような、もう一生かけても消化し切れないお話を伺ったような、とても不思議な気持ちがいたします。
あらためて釈先生、及びに、このようなご縁を結んでいただいた甲野先生の御二方に、御礼申し上げます。
ありがとうございました。
田口慎也
<田口慎也氏プロフィール>
1984年生まれ。長野県出身。14歳で強迫性障害を発症後、不安や恐怖について、病や死について考えるようになる。20代前半の頃に、甲野善紀氏の「矛盾を矛盾のまま矛盾なく扱う」という言葉に出会い、甲野氏の活動に関心を持つ。
メールマガジンのご購読はこちら
http://yakan-hiko.com/kono.html
その他の記事
|
今週の動画「太刀奪り」(甲野善紀) |
|
「すぐやる自分」になるために必要なこと(名越康文) |
|
脳の開発は十分な栄養がなければ進まない(高城剛) |
|
「スマホde子育て」族に悲報、というか取り返しのつかない事態について(やまもといちろう) |
|
ターニングポイントを迎える日本の観光業(高城剛) |
|
『最悪の結果』を前提に、物事を組み立てるべき解散総選挙終盤戦(やまもといちろう) |
|
過去最高益を更新したトヨタ自動車の今後に思うこと(本田雅一) |
|
「他人に支配されない人生」のために必要なこと(名越康文) |
|
ここまで使ってこなくてごめんなさい! 意外なほど実用的だった「TransferJet」(西田宗千佳) |
|
粉ミルク規制問題から見えた「中国vs香港」の図式(ふるまいよしこ) |
|
Amazon(アマゾン)が踏み込む「協力金という名の取引税」という独禁領域の蹉跌(やまもといちろう) |
|
「人間ドック」から「人間ラボ」の時代へ(高城剛) |
|
池上彰とは何者なのか 「自分の意見を言わないジャーナリズム」というありかた(津田大介) |
|
本格的な移動シーズンに向けて最後の仕上げ(高城剛) |
|
1級市民と2級市民の格差が拡がるフランスの実情(高城剛) |











