日本に「レディ・ガガ」は現れない
こうした日本の文化土壌からは、例えば「決してレディ・ガガは登場しない」と言い切っていいでしょう。断っておきますが、僕は別にレディ・ガガを生み出したアメリカの文化土壌が素晴らしい! と言いたいわけではありません。アメリカの土壌は、それはそれで固有の問題を抱えているはずです。
でも、間違いないのは「クリエイティブにやりましょう!」というとき、日本に存在する<ただし、この範囲の中で>という裏のメッセージがアメリカにはあまりない、ということです。
枠組みを設定するのであれば「ただし、この範囲の中で」と明確に言語化しようとするのが欧米圏の文化です。レディ・ガガのような「従来の枠組みを打ち破るアーティスト」は、「従来の枠組み」が徹底して可視化される文化土壌の中にこそ登場し、評価される。
だから日本ではおそらく、レディ・ガガは登場できないし、もし登場したとしても、正当な評価を受けることもできない。なぜなら日本の文化土壌においては、「従来の枠組み」そのものが、非常に目に見えにくいし、それを壊すことを僕らは無意識レベルでかたく拒絶しているからです。
例えば、「キャリーぱみゅぱみゅ」さんのファッションや作品は、(個人的な好みは別にして)素晴らしいし、世界に打って出るだけのクオリティを十二分に持っていると思います。(実際に、日本発の文化として、高い評価を受けています)
でも、一見「自由奔放」に見える彼女のファッションが、日本の「かわいい」文化の枠組からはみだすことはおそらくないでしょう。彼女のように自由奔放に見える人ですら、日本人が共有する無意識レベルでの「ただし、この範囲の中で」の呪縛から自由になっているとは言いがたいのです。
繰り返しますが、これはいい悪いの問題ではなく、日本の文化土壌が持っているある種の「癖」あるいは「病」のようなものです。
日本の文化土壌では「好き嫌い」を百パーセント、主体性に基づいて判断することができない(してはいけない)ことになっている。すべての判断を<ただし、この範囲の中で>という枠内に収めることが、無意識レベルでかたくなに守られているのです。
そのことはこれまでも、「世間」や「空気」というキーワードを通して、数多ある日本論の中で語られてきたことですが、その中で僕が付け加えるというか、強調しておきたいことは、僕ら日本人がそういう「思考の癖」を持ち、ある枠組みに縛られているということを、何度でも繰り返し、言い続けなければいけない、ということです。
なぜならそうしておかないと、僕らはすぐに、自分たちの「思考の癖」を忘れてしまうからです。

その他の記事
![]() |
快適な日々を送るために光とどう付き合うか(高城剛) |
![]() |
「政治メディア」はコンテンツかプラットフォームか(津田大介) |
![]() |
受験勉強が役に立ったという話(岩崎夏海) |
![]() |
「どうでもいいじゃん」と言えない社会は息苦しい(紀里谷和明) |
![]() |
金は全人類を発狂させたすさまじい発明だった(内田樹&平川克美) |
![]() |
冬のビル籠りで脳と食事の関係を考える(高城剛) |
![]() |
なぜ東大って女子に人気ないの? と思った時に読む話(城繁幸) |
![]() |
ブラック企業に欠けているのは「倫理」ではなく「合理性」!? ーーホットヨガスタジオ「LAVA」急成長を支えた人材育成戦略(鷲見貴彦) |
![]() |
ビッグな『トランプ関税』時代の到来でシートベルト着用サインが点灯(やまもといちろう) |
![]() |
アーユルヴェーダで本格的デトックスに取り組む(高城剛) |
![]() |
「イクメン」が気持ち悪い理由(岩崎夏海) |
![]() |
「昔ながらのタクシー」を避けて快適な旅を実現するためのコツ(高城剛) |
![]() |
萌えセックス描写溢れる秋葉原をどうするべきか(やまもといちろう) |
![]() |
ICT系ベンチャー「マフィア」と相克(やまもといちろう) |
![]() |
平成の終わり、そして令和の始まりに寄せて(やまもといちろう) |