※甲野善紀メールマガジン「風の先、風の跡~ある武術研究者の日々の気づき」 からの抜粋です。
「狭霧の彼方に」特別編 その3
ただ信じる、ただ念仏する
ただ、「疑う」と「信じる」について自分の言葉が出来てきた後、そこから先、更に「信じる」についてどう考えていいかなかなか分からない時期が続きました。そして、この文章を書かせていただいてから一年後、2つの文章に出会いました。ひとつは、甲野先生にお送りいただいた浄土真宗・因速寺住職の武田定光氏の文章、もうひとつは南直哉氏の「信じる困難」という文章です。
<武田定光氏(真宗大谷派・因速寺住職)の連載「親鸞を生きる」(中日新聞「人生のページ」)>
一般的に、どんな宗教であっても信じることが必要だといわれる。信じる対象は、さまざまだが、必ず信ずるということを要求される。しかし、親鸞の仏教は人間に信ずることを要求しない。
そもそも、人間が何かを信ずるという場合、何を信ずるというのだろうか。「鰯の頭も信心から」といわれるように、意味のわからないものを鵜呑みにすることが、信心だとでもいうのだろうか。宗教に対する疑問や疑いのこころに目をつぶって、エイヤツと信じてしまうことが宗教ではないはずである。反対に、教理を納得したうえで信ずるのであれば、教理を納得するために自分の知が勝ってしまうではないか。それも信ではないだろう。
親鸞は一生涯「疑いのこころ」に目をつぶることがなかった。若いころの文章に「急作急修して頭燃をはらふがごとくすれども、すべて雑毒雑修の善となづく」(『教行信証』)がある。四六時中、頭に降りかかる火の粉を払うかのように修行したとしても、それらはすべて毒の混じった善でしかないのだろう。毒とは疑いである。
仏教が崇高な教えであることは十分に理解している。しかし、それを信じたい、信じようとするときに残ってしまうものがある。それが「信じられない自分」という問題だ。
浄土真宗には「妙好人」と呼ばれる在野の念仏者がいる。僧侶でも仏教学者でもない一般人だが、親鸞の核心をつかんでいるひとのことだ。幕末の妙好人である讃岐の庄松が有名だ。彼のところに信者ひとが訪ねてきて、こういう疑問を述べた。
「私は往生の一段にどうも安心ができませぬ、どうしたらよかろう」と。それに対して庄松は「それは極楽まいりをやめにしたらよい」と答えた。(『庄松ありのままの記』)
質問者は、自分は阿弥陀さんにおまかせしてお浄土へ往生するという教えがどうしても信じられないと質問している。庄松の答えは明快だ。
庄松は質問者がどこにつまずいているのかを知っている。浄土へ往生したいというあなたの思いは、突きつめれば損得根性ではないかと。なぜ浄土へ往生したいのかといえば、それは、安心安楽な世界を手に入れたい欲にすぎない。結局、自分にとって都合のよい未来を欲望し、都合の悪い未来を恐れているのだ。だから、損得根性で信仰することをやめなさいと指摘している。質問者の心には、信じなければならない、信じることができるという倣慢が潜んでいる。
ところが八十五歳の親鸞は、次のように述べる。「浄土真宗に帰すれども、真実の心はありがたし 虚仮不実のわが身にて 清浄の心もさらになし」(『親鸞和讃集』)と。入門したての信者が述べるのならわかるが、自分の一生を信仰にささげてきた親鸞が、こう述べるのだ。
私はここに、信じることを必要としない宗教が確立したと思う。人間が何事かを信ずるというとき、そこには少なからず損得根性が潜んでいる。さらに信ずることで、真実に近づいたとか、清浄なものに近づいたといううぬぼれが首をもたげてくる。そういう毒をことごとく削ぎ落としてくるものこそ信仰なのだと親鸞は見抜いたのだ。
「たとい牛盗人といわるとも、もしは善人、もしは後世者、もしは仏法者とみゆるように振舞うべからず」(覚如『改邪鈔』)と親鸞は語っていたという。牛を盗む人間と指さされても、信仰者と見えるように振る舞ってはならないと。親鸞にそう言わしめたものはなにか。それは、信がもっている傲慢さへの警鐘である。信は時と場合によっては、凶器ともなるからである。
八十五歳の親鸞は、もはや人間から起こす信仰を放擲した。「放擲した」と能動形で語れば嘘になる。「放擲せしめられた」と受動形でいわなければ親鸞の本意にはそぐわないだろう。
<南直哉氏のブログ「恐山あれこれ日記」より>
「信じる」とは、いかにして可能になる行為なのでしょう。
もし、ある存在や考えをそのまま受容すると言うなら、それは「了解」とか「理解」であって、「信じる」ことではないでしょう。
むろん、それは「あるものが存在してほしい」とか「ある考えが正しくあってほしい」と「願う」ことでもありません。「信じる」のはあくまで、「存在する」ことであり「正しい」ことなのです。
すると問題なのは、「信じる」ことは、「疑う」ことがない限り、不可能だということです。そもそも、「存在しないかもしれない」「間違っているかもしれない」と思う余地がなければ、「信じる」ことは成り立ちません。疑いがまったくないなら、「理解」「承認」するだけでしょう。ならば、「信じる」とは即、「疑いの排除」として以外に現実化しません。
だとすると、われわれは決して純粋に「信じる」ことはできないことになります。つまり、「信じている」限り、「疑っている」ことになってしまうからです(同時に、「疑っている」人間は、常に「信じる」ことを欲望しているのです。「信じる」何かを求めないなら、「疑う」必要はありません)。
この矛盾を回避する方法は、私が思うに二つです。一つは、「疑い」を排除することをやめて、「信じる」ことに取り込んでしまうのです。これを称して、「賭ける」といいます。すなわち、「信じる」ときに、最初から「存在しないかもしれない」「間違っているかもしれない」ことを当然の前提とするわけです。
もう一つは、「信じる」何かを消去することです。「あるものが存在すること」「ある考えが正しいこと」を無視して、「ただ信じる」。他動詞の「信じる」を自動詞化してしまうのです。
ということはつまり、それまで「信じる」方法であった行為、あるいは「信じる」ことを表現していた行為それ自体を、目的化することになります。たとえば、「ただ坐禅する」「ただ念仏する」。
このとき、「信じる」対象は失われ、「信じる」主体は「信じる」行為に融解して、「信じる」行為は無意味と化して、ただの「行為」になるのです。そうなれば、もはや「疑う」ことも不可能です。
結局、「信じる」行為の極限には、「信じる」何事もない。「宗教」もない。
私は『正法眼蔵』や『教行信証』を読むたび、いつも「信じる」困難さを思わされ、こんなことを考えるのです。
これらの文章を読み、私は「信じる何かを消去する」ということ、「信じるを行為に預ける」ということについて、考えるようになりました。超越的な概念などの何かを「受けいれた結果」として「祈る」のではなく、「祈ることが信じることである」ということ。行為の中に、信じるを溶かし込むということ。このようなかたちで、「信じたいけど信じきれない」という矛盾・苦しみと決着をつけようとした人たちがいたのではないか。そのようなことを考えるようになりました。
この「行為が信念や覚悟を示す」ということと深く関わる逸話を、名越康文先生とお話させていただく機会があり、お教えいただきました。その際、私は「最近、『ただ信じる』ということについて、よく考えてしまうんです。たとえば、『何かを』信じるということではなく、念仏という行為に『信じる』を預けるというようなことについて考えてしまうんです」と名越先生にお話しさせていただいたのです。すると名越先生は、「ああ、それは僕、分かる気がします」と仰ってから、ひとつの逸話をお教えくださいました。
それは、ある浄土真宗の僧侶のお話でした。その僧侶は、ある日、列車の走行中、車両の連結部分から地面に落下してしまったのだそうです。そしてその結果、助かる見込みの無い大怪我を負ったそうです。そのまま、その場所で絶命するしかないほどの、大怪我を負ったそうです。その状態で、最期の最期、息を引き取る直前にその僧侶は、「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と2回、念仏を唱えたそうです。念仏が、口をついて出たそうです。そしてそのまま、絶命したのだそうです。
名越先生は「この話を聞いても、最初はあまりピンときませんでした。でも今は、分かる気がするんです」と仰っていました。私も、たとえば一にこの話を聞いても、あまりピンと来なかったかもしれません。ですが今は、この話が胸に刺さるのです。
その僧侶が生前、どのような生き方をしていたのか、私は知りません。もしかしたら生前は、自らの「信」について、多くを語らなかった人なのかもしれません。いずれにせよ、その僧侶の「信」は、彼の絶命寸前の念仏が、全て示していると思うのです。彼が語った言葉ではなく。行為が、「信」を、結果として示す。「ただ信じる」ということを考えるようになった今は、この逸話が持つ凄みを、私なりに理解するようになった気がするのです。
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