津田大介
@tsuda

メルマガ『メディアの現場』vol.46「今週のニュースピックアップ」より

政府の原発ゼロ政策はなぜ骨抜きになったのか

1956年、すでに高速増殖炉の計画があった

――高速増殖炉の計画は、いつスタートしたのでしょう?

津田:少しさかのぼって、日本の原子力政策が始まったあたりからお話ししましょう。

1945年、広島と長崎への原爆投下によって第二次世界大戦が終結します。そしてアメリカの占領下に置かれた日本は、原子力の研究をしばらく禁止されたんですね。それが解かれたのは1952年、日本が連合国各国とサンフランシスコ講和条約を結び、国家の主権を回復してからです。

このタイミングで原子力に目をつけたのが、のちに総理大臣を務める中曽根康弘らです。当時、衆議院議員だった中曽根康弘たちは1954年3月、原子力に関する予算を国に提出。原発の燃料になるウラン235にちなみ、その額は2億3500万円でした。

日本における原子力開発の歴史が、こうして幕を開けます。そして1955年には原子力の平和利用を定めた「原子力基本法」が制定され、翌年には原子力政策の最高決定機関として原子力委員会が発足します。同年1956年、同委員会が発表したのが「原子力の研究、開発及び利用に関する長期計画」です。[*3]

この文書には、注目すべき一文があるんですね。「わが国における将来の原子力の研究、開発および利用については、主として原子燃料資源の有効利用の面から見て増殖型動力炉がわが国の国情に最も適合すると考えられるので、その国産に目標を置くものとする」――表現は「増殖型動力炉」となっているものの、戦後間もないこの時期、すでに高速増殖炉の国産化を目標に据えていたことがわかります。

この姿勢は1967年版の「長期計画」で明確に打ち出され、国家プロジェクトとして強力に推し進められていくことになるんですね。[*4]

ちなみにこの「長期計画」では、「昭和60年代の初期」――つまり1985年から数年内を、高速増殖炉の商用化時期としています。つまり、計画どおりに進んでいれば、今ごろ高速増殖炉による発電が行われていたとしても、おかしくないんですよ。

1 2 3 4 5 6 7 8
津田大介
ジャーナリスト/メディア・アクティビスト。1973年生まれ。東京都出身。早稲田大学社会科学部卒。早稲田大学大学院政治学研究科ジャーナリズムコース非常勤講師。一般社団法人インターネットユーザー協会代表理事。J-WAVE『JAM THE WORLD』火曜日ナビゲーター。IT・ネットサービスやネットカルチャー、ネットジャーナリズム、著作権問題、コンテンツビジネス論などを専門分野に執筆活動を行う。ネットニュースメディア「ナタリー」の設立・運営にも携わる。主な著書に『Twitter社会論』(洋泉社)、『未来型サバイバル音楽論』(中央公論新社)など。

その他の記事

人工知能の時代、働く人が考えるべきこと(やまもといちろう)
追悼・鶴ひろみさん/再生の水の秘密を知る少女=ブルマとともに(武田梵声)
年内に来る? Wi-Fi Awareとは(小寺信良)
「執筆ウォーキング」と「縄文式トレーニング」(高城剛)
フィンランド国民がベーシック・インカムに肯定的でない本当の理由(高城剛)
「すべては2つ持て」–私の出張装備2015(西田宗千佳)
企業のトップストーリーについて思うこと(やまもといちろう)
2017年、バブルの時代に(やまもといちろう)
変化のベクトル、未来のコンパス~MIT石井裕教授インタビュー 後編(小山龍介)
世界は本当に美しいのだろうか 〜 小林晋平×福岡要対談から(甲野善紀)
「見て見て!」ではいずれ通用しなくなる–クリエイターの理想としての「高倉健」(紀里谷和明)
アメリカでスクーター・シェアを「見てきた」(西田宗千佳)
人間の運命は完璧に決まっていて、同時に完璧に自由である(甲野善紀)
“美しい”は強い――本当に上達したい人のための卓球理論(上)(山中教子)
「立憲共産党」はなぜ伸び悩んだか(やまもといちろう)
津田大介のメールマガジン
「メディアの現場」

[料金(税込)] 660円(税込)/ 月
[発行周期] 月1回以上配信(不定期)

ページのトップへ