1956年、すでに高速増殖炉の計画があった
――高速増殖炉の計画は、いつスタートしたのでしょう?
津田:少しさかのぼって、日本の原子力政策が始まったあたりからお話ししましょう。
1945年、広島と長崎への原爆投下によって第二次世界大戦が終結します。そしてアメリカの占領下に置かれた日本は、原子力の研究をしばらく禁止されたんですね。それが解かれたのは1952年、日本が連合国各国とサンフランシスコ講和条約を結び、国家の主権を回復してからです。
このタイミングで原子力に目をつけたのが、のちに総理大臣を務める中曽根康弘らです。当時、衆議院議員だった中曽根康弘たちは1954年3月、原子力に関する予算を国に提出。原発の燃料になるウラン235にちなみ、その額は2億3500万円でした。
日本における原子力開発の歴史が、こうして幕を開けます。そして1955年には原子力の平和利用を定めた「原子力基本法」が制定され、翌年には原子力政策の最高決定機関として原子力委員会が発足します。同年1956年、同委員会が発表したのが「原子力の研究、開発及び利用に関する長期計画」です。[*3]
この文書には、注目すべき一文があるんですね。「わが国における将来の原子力の研究、開発および利用については、主として原子燃料資源の有効利用の面から見て増殖型動力炉がわが国の国情に最も適合すると考えられるので、その国産に目標を置くものとする」――表現は「増殖型動力炉」となっているものの、戦後間もないこの時期、すでに高速増殖炉の国産化を目標に据えていたことがわかります。
この姿勢は1967年版の「長期計画」で明確に打ち出され、国家プロジェクトとして強力に推し進められていくことになるんですね。[*4]
ちなみにこの「長期計画」では、「昭和60年代の初期」――つまり1985年から数年内を、高速増殖炉の商用化時期としています。つまり、計画どおりに進んでいれば、今ごろ高速増殖炉による発電が行われていたとしても、おかしくないんですよ。

その他の記事
![]() |
日本人の情報感度の低さはどこからくるのか(やまもといちろう) |
![]() |
「レゴとは、現実よりもリアルなブロックである」(宇野常寛) |
![]() |
競争社会が生み出した「ガキとジジイしかいない国」(平川克美×小田嶋隆) |
![]() |
「身の丈」萩生田光一文部科学相の失言が文科行政に問いかけるもの(やまもといちろう) |
![]() |
人は自分のためにではなく、大好きな人のためにこそ自分の力を引き出せる(本田雅一) |
![]() |
急成長を遂げる「暗闇バイクエクササイズ」仕掛け人は入社3年目!?–「社員満足度経営」こそが最強のソリューションである!!(鷲見貴彦) |
![]() |
『「赤毛のアン」で英語づけ』(4) 大切な人への手紙は〝語感〟にこだわろう(茂木健一郎) |
![]() |
萩生田光一師匠、ガセネタを流し続けてきた深田萌絵を刑事告訴(やまもといちろう) |
![]() |
アマゾンの奥地にしかない「知覚の扉を開く鍵」(高城剛) |
![]() |
グーグルさん、あなたのお客さんは誰ですか?(本田雅一) |
![]() |
スマホVRの本命「Gear VR」製品版を試す(西田宗千佳) |
![]() |
「減りゆく日本人」出生数低迷と政策的手詰まり(やまもといちろう) |
![]() |
日本はポストウクライナ・ロシア敗戦→崩壊「後」に備えよ、という話(やまもといちろう) |
![]() |
GAFA+Nの存在感、その価値の本質(本田雅一) |
![]() |
東芝「粉飾」はなぜきちんと「粉飾」と報じられないか(やまもといちろう) |