仏の微笑はどこから来たのか?
そんなたくらみがエキサイティングでないわけがない。例えば、釈迦像のうち、ある像は日本で盛んに造られ、ある像は日本でほとんど造られなかったとしたならば、その背後にはどのような日本人の好みと、日本文化、日本人の心性が控えていたのかを問うのである。また「阿弥陀仏は、奈良時代では、主として説法をしている姿で表わされ、平安時代は坐って沈思黙考している姿で表わされ、そして更に鎌倉時代以後は、立って念仏者を迎えている姿で表わされる」のだが、その背後には、阿弥陀仏を変化させなければならなかった、人間の心のいかなる変化があったのだろうかと問うてみるのである。そして、ジェット機のような速度で雲に乗ってやってくる阿弥陀仏の「早来迎」や「迅雲来迎」を描かなければならなかった人の心の中に、一刻も早い往生をのぞむ不安の隠されているのを読み取っていくのである。
何よりも刺激的だったのは、仏像の微笑についての考察である。
そもそも仏の微笑はどこから来たか? 西からやってきたのである。ガンダーラにおいてギリシア彫刻が仏像に変化する。したがって仏の微笑は、もともとギリシア彫刻の口もとに浮かぶ微笑だった。ではそのギリシア人はどこから像をつくることを学んだかと言えば、エジプトからである。エジプト人から像を作ることを学んだ時、「永遠の死」に向かって沈黙の瞑想をする像の口もとにギリシア人は微笑を加えてやったのである。それは、人生の素直な肯定の表現であるとともに、戦闘的なギリシア人にとっては勝利の微笑でもあった。考えてみればホメロスの描いたゼウスの哄笑以来、プラトンにとってもアリストテレスにとっても、ホッブスやベルグソンやパニョルにとっても、笑いとは常に優越の笑いであったのだ。
翻って、法隆寺や薬師寺の仏様の微笑を思うとき、そこにはいかなる勝負も優越感も見出すことはできない。仏の微笑はデモステネスの微笑ではない。竜樹の『大智度論』にこうある。
「笑うには種々の因縁有り。ある人は歓喜して笑い、ある人は瞋恚して笑い、ある人は人を軽んじて笑い、あるいは異事を見て笑い、あるいは羞恥すべきことを見て笑い、あるいは殊方の異俗を見て笑い、あるいは希有の難事を見て笑う。今は是れ第一希有の難事なり。衆生の為に説いて解脱を得しめんと欲す。是れ第一の難事なり……是れ難事を以ての故に笑う。」
ここにはプラトンにもアリストテレスにもベルグソンにもなかった、笑いの哲学がある。仏の笑いは苦難における笑い。それは敗北に対する勝利の笑いではなく、悲しみに対する喜びの笑いでもなく、笑いの中に悲しみを伴った笑いである。絶望の先に希望を見出そうとする、無限の困難に対する克服の意志を込めた、慈悲と悲哀の笑いである。
私は、この仏の微笑ということにはっとさせられた。そしてそれ以来、ひとり密かに「微笑の数学」ということを口ずさむようになった。
知を闘争に向けるのではなく、和合に向けるということ。様々の概念を対立させるのではなく、ひとつの造形の調和のうちに共在させてしまうということ。対立する二極を消していくのが「消極」だとしたら(『日本という方法』松岡正剛)、そのような「消極的」数学があってもいいのではないかと夢想するのである。
いずれにせよ、数学もまた人間の精神と生命力の表出であり、人間の思考が象る形象であることには違いない。仏像がその形を変えてきたように、数学もまた刻々とその形を変えていくのである。
数学を象り、また同時に数学に象られながら、さてこれからどんな道を歩いて行こうか……。
行く先の果てしなさと困難とを想いながら、微笑む。
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