(※この記事は2013年4月5日に配信されたメルマガの「特別企画 鈴木寛『テレビが政治をダメにした』」から抜粋したものです)
民主党の鈴木寛参議院議員(@suzukan0001)による『テレビが政治をダメにした』という新著が4月3日に発売されました。通商産業省、慶應義塾大学環境情報学部助教授を経て参議院議員となったスズカンさんは、役人、情報社会学者、国会議員という多様な立場で政策に関わってきた貴重な人材であり、民主党を担う政策通、論客としても知られています。
そんな彼が「テレビから干される覚悟で書いた」と語る本書では、視聴率至上主義に走るテレビ局やキャスター、テレビにおもねる政治家がめった斬り。テレビメディアと政治の関係を紐解く貴重なメディア論にもなっています。今回本書の中でも特に資料性が高く、序盤のクライマックスと言える第二章をご本人から許諾いただき、本メルマガに転載させていただきました。新書840円とお求めになりやすい価格になっていますので、面白いと思われた方はぜひご購入のほどよろしくお願いします。
◆第二章 テレビと政治の関係はいつから変質したのか
──テレビメディアと政治の重大事件史──
【1972年】
佐藤栄作首相が引退表明。
新聞記者を退席させ、テレビに向かって引退会見。
【1979年】
自民党四十日抗争。
浜田幸一議員が報道陣の前でバリケードをぶち壊す光景は、
テレビで大きな話題になる。
【1980年】
国会の予算委員会がテレビ中継。
【1985年】
テレビ朝日「ニュースステーション」放送開始。
【1988年】
リクルート事件。国会の爆弾男・楢崎弥之助議員が
日本テレビ「ニュースプラス1」でリクルートの贈賄工作を暴露。
【1989年】
テレ朝「サンデープロジェクト」放送開始。
田原総一朗氏の登場。
【1989年】
テレ朝「どーする!? TVタックル」放送開始。
【1992年】
フジテレビ「報道2001」放送開始。
小沢一郎氏が率先して出演するが、
小沢氏は細川連立政権を立ち上げた93年ごろから、
メディアとの接触を記者会見だけに制限し始める。
【1993年】
宮澤喜一首相が、「サンプロ」での田原氏とのやりとりで、
政治改革関連法案をめぐって「何としても成立させたい」と
言質を取られ、これが党分裂につながり、政界再編に。
【1993年】
「初代メディア宰相」細川護煕政権誕生。
【1998年】
小渕恵三首相が、ぶっちホンでテレビに電話出演。
【2000年】
加藤の乱。渡邉恒雄氏の山里会で持ち上げられ、
倒閣を宣言するも失敗。
【2001年】
小泉政権誕生。1日2回の「ぶら下がり取材」を行う。
ワンフレーズポリティックスが始まり、政治報道は過熱。
5月には「ビートたけしのテレビタックル」が政治問題を中心に扱い始める。
7月、参院議員選挙があり、小泉ブームの中、大橋巨泉氏が当選。
【2004年】
政治家の年金未納問題をテレビや新聞が激しく追求し、
福田康夫氏が官房長官を、菅直人氏が民主党代表を辞任。
【2005年】
小泉首相が郵政解散を実行。
衆院選総選挙で小泉チルドレンブームが巻き起こる。
【2007年】
メディアの安倍バッシングが最高潮に達し、
参院選で自民党の歴史的大敗。ねじれ国会に。
【2009年】
衆院総選挙で民主党が圧勝し、政権交代が実現。
小沢ガールズが誕生。
【2012年】
衆院総選挙で民主党が大敗し、ふたたび自民党政権に戻る。
第二章ではテレビと政治の関係を歴史の面から見ていきたいと思います。そもそもテレビと政治とは、本質的に折り合いが悪いものなのか。または、いつどこからか変質してきたのかを政治家のメディア戦略と私の体験から見ていきます。
まず、テレビは1953年2月にNHKが、8月には日本テレビ放送網が本放送を開始します。それ以来、60年が過ぎたわけですが、大きく三つの時代に分けることができます。(1)ありのままを伝えていた時代(1980年代中盤まで)、(2)視聴率が取れる映像を狙い始めた時代(1980年代中盤~1990年代中盤)、(3)デジタル技術の導入で、自由自在に画像編集・画像処理ができるようになった時代(1990年代後半~)です。簡単に見ていきましょう。
(1)「ありのままを伝えていた時代」(1980年代中盤まで)とは、編集技術が発達しておらず、生放送中心の時代でした。テレビ局のニュースは国会をそのまま伝えるというのが役割です。また、その背景には、テレビ局が政治と密着したところからスタートしたという事情(たとえば、日本テレビ放送網の創設者は米国と協力関係を築き、原子力政策を推進した正力松太郎氏であるなど)もありました。このため、政治に関しては極めて抑制的なものでした。この時代のテレビ史的な代表的政治家といえば、佐藤栄作氏と田中角栄氏でしょう。
(2)「視聴率が取れる映像を狙い始めた時代」(1980年代中盤~1990年代中盤)とは、日本経済がバブルを迎え、広告収入が格段に跳ね上がったテレビにとっての黄金期です。85年には広告代理店・電通の強力なサポートのもと、テレビ朝日「ニュースステーション」が放送開始。87年4月からはテレビ朝日の深夜討論番組「朝まで生テレビ!」、89年4月にはテレビ朝日「サンデープロジェクト」、89年7月にはテレビ朝日「どーする!? TVタックル」、92年にはフジテレビ「報道2001」が放送を開始し、次々に政治を扱うテレビ番組がスタートします。88年にはリクルート事件が起き、政治の有力者が次々とマスメディアから追及されました。89年1月に昭和天皇崩御、89年11月にベルリンの壁崩壊と、視覚的にも強い印象を与えるニュースが相次いだ時代です。この時代の代表的な政治家は中曽根康弘氏と細川護熙氏です。
(3)編集ができるようになった時代(1990年代後半~)はバブルが崩壊し、失われた20年に日本経済は突入します。テレビ局も例外ではなく、徐々に広告収入減収の時代になり、高い視聴率を取ることで広告収入を確保する必要が出てきました。テレビは政治に対しても、首相交代、退陣、政権交代、政界再編など目新しくて視聴率が取れそうなドラマを期待するようになります。小泉旋風(2001年)、郵政選挙(2005年)、政権交代選挙(2009年)といったように、政治の中にテレビメディアが関わるようになります。この時代の代表的な政治家は小泉純一郎氏でしょう。
◇80年代中盤までの「ありのままを伝えていた」時代
各時代を代表的な政治家のメディア戦略とともに詳しく見ていきましょう。
80年代中盤までは「ありのままに伝えていた」時代です。米国の強い指導のもと、テレビ本放送は民主主義、資本主義を日本に根付かせる目的をもって、53年2月に始まります(日本の独立はサンフランシスコ講和条約発効による52年4月)。その意向に沿って放送をスタートしたのが、正力松太郎氏が社長を務める日本テレビ放送網です。正力氏は読売新聞の経営者でもあり、日本テレビのニュースは読売新聞のニュースを使うという形が一般的なものでした。
この日本テレビの生い立ちは、日本のメディアのあり方に極めて大きな影響を与えました。即ち、健全な民主主義の発展にとって、新聞がテレビ局を所有するということは、絶対に避けるべきというのが先進国の常識です。独立した新聞とテレビが緊張感を持って、相互に批判し合うことで、偏向報道や恣意的な記事の掲載が難しくなり、結果として、社会に正確な事実とバランスの取れた論評が流通することとなります。
しかし、日本の場合は、新聞社がテレビ局を事実上支配しているところから歴史が始まり、そして、NHKを除くほぼすべてのチャネルが、新聞社の所有であることで、新聞社グループの馴れ合いの構造や談合体質ができてしまいました。
実は、BS放送、CS放送導入のタイミングが、これを打ち破るチャンスだったのですが、BSについては、免許割り当てでBSイレブンなどの例外を除き、事実上、地上波の資本系列をそのまま踏襲した形になってしまいました。CSについては、スカイパー!、ディレクTVなどの登場により、報道の実質的、本格的な多様化が期待され、事実、国会TVなどの独立系テレビがCS放送には登場しましたが、衛星放送回線の利用料が高額で、採算を取り続けることが極めて厳しくなり、閉局に終わりました。
そもそもテレビ局は放送法により免許が与えられる免許事業です(なお、免許第一号はNHKではなく日本テレビ放送網でした)。地方の地上波テレビ局への免許交付やBSなどの割り当てなどが定期的にあり、テレビ局にとっては政治権力というテーマはとてもデリケートな問題だったと推察されます。
当時、政治に対して、圧倒的な力があったのは新聞です。新聞はときに政治を大きく動かすようなスクープを飛ばしました。当時の新聞メディアは、政治と密接な関係を構築するメディアと、反米国や反資本主義的なイデオロギーから政治に対して理想主義的な異議申立てを行なうメディアに分かれていました。いずれにせよ、政治に大きな影響力がありました。
また、新聞メディアはすでに取材・表現方法が高度化しており、政治家に対する贈収賄事件などのスキャンダルをスクープし、政局化させるようになります。政治を「作る」という作業ができるようになってきたわけです。
こうした動きに対して、反発したのがリアリズムの政治を行なってきた佐藤栄作氏です。首相在任期間は7年8カ月間(64~72年)に渡りましたが、黒い霧事件(66年)など次々にスキャンダルに見舞われました。71年、日米間で結ばれた沖縄返還協定に関して、毎日新聞記者の西山太吉氏が「米国が地権者に支払う土地現状復旧費用400万ドル(時価で約12億円)を日本政府が米国に秘密裏に支払う」密約が存在するとのスクープを放つなど、常に緊張関係にありました。佐藤氏の新聞メディアへの不信が形となって現われたのが、首相引退表明会見(72年6月)で、非常に有名な一幕があります。
「テレビカメラはどこにいるのか。新聞記者の諸君とは話さないようにしている。国民に直接話したいんだ」
と新聞記者を退席させ、テレビに向かって引退会見を行ないました。ただ単に起こっていることを伝えるというのがテレビの役割で、政治家からもそれを期待されていたことが分かります。テレビは国会の予算委員会を生中継するのが役割だったのです。
政治側はテレビメディアをコントロールしようとさえ考えていました。佐藤氏の首相引退表明会見の2カ月後の72年8月、首相就任直後の田中角栄氏(首相在任期間72~74年)は軽井沢で番記者9人に対し、こう語りました。
「俺はマスコミを知りつくし、全部わかっている。郵政大臣のときから、俺は各社全部の内容を知っている。その気になれば、これ(クビをはねる手つき)だってできるし、弾圧だってできる」
「いま俺が怖いのは角番のキミたちだ。あとは社長も部長も、どうにでもなる」
「つまらんことはやめだ、わかったな。キミたちがつまらんことを追いかけず、危ない橋を渡らなければ、俺も助かるし、キミらも助かる」
この発言は、「軽井沢発言」として田中氏のマスコミ支配を象徴する有名な発言です。確かに当時の田中氏はテレビメディアに対して圧倒的な力を持っていました。というのも、テレビメディアは放送法により免許が与えられる免許事業ですが、この権限は郵政省(現総務省)が有しています。この権限に目をつけたのが田中氏で、57年に岸信介内閣で初めて郵政大臣に就任すると、多くの申請があった地方局の免許を矢継ぎ早に調整して認可を出し、地方への影響力を強めたのです。また、テレビ局と新聞社の統合系列化も促進させました。以来、郵政大臣は田中派がガッチリ押さえてきたのです。テレビメディアの生殺与奪を田中派が握っていたのです。
田中氏は芸能界からも積極的にスカウトを行ない、参議院選挙では全国区で山口淑子氏、山東昭子氏、宮田輝氏などを当選させるなど、テレビの影響力についても理解していました。
テレビは田中氏を「今太閣」ともてはやしましたが、田中派の支配の及ばない月刊誌『文藝春秋』による金脈問題キャンペーンを受け、日本外国特派員協会における外国人記者との会見や、国会での追及を受けて辞任することになります。そして、76年、ロッキード事件で逮捕され、自民党を離党した後も、党内最大派閥の実質的な支配者として君臨したために、田中氏を「闇将軍」と呼ぶマスメディアも出てくるようになりました。
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