ゲーム中に『負けたらどうしよう』と思う暇がなかった
卓球の試合(ゲーム)について、ある生徒さんと話しているときに、私が驚いたことがあります。その人は卓球歴も長いし、学生時代には一生懸命練習し、試合にも出ていた方です。その人があるとき「山中先生、ゲーム中に『負けたらどうしよう』と不安になったとき、どうやって気持ちを持ち直せばいいんでしょう」と質問されたんです。
この質問を聞いて、私は「え?」と思いました。というのも、思い起こしてみると、私自身は試合中、「負けたらどうしよう」とか「勝てるかな?」と不安に思った記憶があまりなかったんです。そこで、他の生徒さんにも聞いてみました。そうすると、多くの人が、試合中にいろんな不安で頭がいっぱいになる、というんですね。「どうしてさっきのボールが取れなかったんだろう」とか「もし負けたら監督に怒られちゃうかな」とか。
それを聞いて、私はこう思いました。「え? どうしてゲーム中にそんな暇があるの?」って。
笑っている人がいますね。みなさん、心当たりがありそうです。でも私はこのとき「もしかしたらこのことが、『ゲームとは何か』ということを考えるうえで、大切な鍵なのかもしれないぞ」と思いました。
私だってもちろん、「勝ちたいな」とか「負けたらどうしよう」と思うことはあります。でも、いざゲームに入ると、そんなことを考える暇がなかった。なぜなら、ゲーム中の限られた時間の中には、ものすごくたくさんやらなければいけないことがあったからです。不安になったりする暇がなかった。
ゲーム中に「負けたらどうしよう」と不安になってしまうか、不安になる暇もないか。この違いはどこから来るのでしょうか。ここには、ゲームの本質を考えるうえで、大きなカギがあるような気がします。
ゲームは「電車に乗る」ことに似ている
そもそも「ゲーム」とはなんでしょうか。私は、ゲームというものの一番大きな特徴は「時間の流れ」が日常と異なっている、ということだと思っています。日常の時間の流れとはまったく別の「ゲームの時間」というものがあるのです。
「ゲームの時間」の特徴は2つあります。それは「一度始まると後戻りができず、一方向に流れていく」ということ、そして必ず「終わり」があるということです。これは「電車に乗っているときの時間」を思い浮かべてもらうとわかりやすいと思います。
新幹線が、東京から京都に行く間に途中で引き返したりすることがないように、卓球のゲームでは、ラリーが終わるたびにポイントが加算され、途中でポイントが後戻りすることはありません。そして終着駅に着けば電車を降りるのと同じように、ゲームも必ず、どこかで「終わり」があります。
電車に乗ると、窓から「景色」が見えます。山があり、田んぼがあり、川があり、家があり、湖が見えたりします。東京から新幹線に乗ると、静岡のあたりを通りかかると窓から富士山が見えます。「ああ、富士山ってきれいだな」そんなことを思いながら電車に乗り続けていると、やがて名古屋につきます。そうするともう、富士山をみることはできない。電車は後戻りできないのです。
また、停車駅でもないのに、勝手に電車を降りることはできませんね。もし、自分で自動車を運転して旅行しているのであれば、話は別です。食事に行ってもいいし、観光してもいい。引き返したり、止まったりできる。つまり、電車に乗るのが「ゲームの時間」だとすれば、自動車で旅行するのは、「日常の時間」に近い、ということですね。
なんとなく、イメージができましたでしょうか? 「ゲームの時間」というのは、自動車ではなく、新幹線に乗って移動しているような感覚が私にはある。ゲーム中の時間は、常に一方向に進んでいき、勝手に降りたり、止まったりすることはできない。そして最後には必ず、終着駅がある。
ゲームとは「車窓から見える景色」を積み上げていくこと
電車に乗ることと、ゲームは「時間」という点では似ている。しかし、そこには大きな違いもあります。それは「相手」がいる、ということです。新幹線の窓から見える景色は同じですが、ゲームという「電車」の車窓から見える景色は、一回たりとも同じものがありません。それは相手がいるからです。ゲームの景色というのは、自分と相手とが、一球ごとに作り上げていく景色なのです。
「一球ごとに作り上げられるゲームの景色」をどう捉えるかは、ゲームの勝敗を分ける大きなポイントです。ある一本のラリーをどう捉えるかということも大事ですし、そのラリーをゲーム全体、あるいはセットごとの大きな「景色」の中でどう捉えるかが、戦略を左右するのです。
もちろん、ゲームの勝ち負けを決める要素は、卓球のようなスポーツの場合、スキルの差ということも大きいわけですが、たとえスキル的には上の相手であっても、この「景色」を上手に捉えれば、番狂わせを起こして勝つことも珍しくはありません。
自分がサーブを出し、相手がレシーブし、次のボールを自分がどこへ打ち、相手がどう返してきたか。どこで自分がミスをし、相手がミスをしたか。そういう「景色」を1本1本積み重ねていく。ゲームに強い人はゲーム中、ずっとそういうことに頭を働かせているんです。だから「負けたらどうしよう?」と不安になっている暇がありません。
1つのラリーが終わったら、そのラリーを踏まえて、次の1本をどう取るかを考える。そのときには当然、何を取り、何を捨てるかという「取捨選択」をしています。悪いところを捨て、良い所を生かす。自分が有利なポイントに、戦いの場所を集中させる。
こうやって言葉にすると難しいことのようですが、考えてみれば当然のことですよね。これはいわば、ゲームの中で常に「現実」を見すえて、それに対して頭を使って次のプレーにつなげていきましょう、ということにほかなりません。ゲームというのが、(まるで電車に乗っているかのように)一方向に流れる時間の中で、相手とともに次々に移り変わる「景色」を積み重ねていくものだとすれば、それ以外にゲームの中でやるべきことはないはずです。
ところが、多くの人はそういうふうにゲームに取り組むことができない。「ああ、ダメだ」「負けたらどうしよう」という不安にとらわれてしまい、ゲームの「景色」、すなわちゲームの「現実」を見失ってしまう。そうなってしまうと、ゲームには決して勝つことはできません。なぜなら、その人はすでに、ゲームという電車から、途中で降りてしまっているからです。
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